唐(王朝) (618年〜907年)
618年、李淵・李世民の父子が関中を占拠し唐を建国し、長安に都を定め、628年、群雄勢力を一掃して天下を完全に統一した。
7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。
日本は遣唐使を送り、894年(寛平6年)に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。
690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐(王朝)歴史に含めて叙述することが通例である。
唐(王朝)
東アジア世界の形成と発展
東アジア文化圏の形成
唐の建国と発展
隋末の混乱のなか、各地に蜂起した群雄を抑えて、中国を再統一したのは、太原(現山西省)で挙兵した李淵・李世民の父子であった。
李淵(高祖(唐))、李世民はいち早く関中を占拠すると唐(618〜907)を建国し、長安を都と定めた。
高祖(唐)の時代、各地に割拠した群雄(河北の竇建徳、王世充など)はかなりの勢力を保っていたが、次子李世民の活躍によってしだいに平定されていった。
626年、李世民は兄の皇太子・李建成をクーデターによって打倒(玄武門の変)、第2代皇帝太宗(唐)に即位し、628年、群雄勢力を一掃して天下を完全に統一した。
太宗は国内においては、諸制度を整備して唐(王朝)国家体制の基盤を確立し、対外的には、最大の強敵であった東突厥を撃破し、西北遊牧民族の首長から天下汗の称号を贈られるなど、大いに唐(王朝)国力を伸張させた。
このため太宗の治世は、古来より貞観の治と称されて讃えられている。
太宗から次の高宗(唐)の時代は、唐(王朝)第一の盛時であり、唐は世界的な大帝国へと発展していった。
高宗時代(唐)には、西は西突厥を大破して滅亡に追い込み、アラル海にいたる西域を支配下におさめ、東は新羅と結んで、高句麗・百済を滅ぼすなど、唐(王朝)領土は最大に達した。
唐は、領土内の異民族に対しては、それぞれの部族長に唐朝の官爵を与えて、間接的に諸部族を支配する羈縻政策を採用し、これら諸部族に対する統治・監視機関として、辺境に六都護符(安西・北庭・安北・単于・安東・安南)を設置した。
律令体制
隋唐(王朝)国家体制を一般に律令体制と呼ぶ。これは、国家体制の根本をなす基本法典として 律・令・格・式を定め、国家の行政組織や業務などをすべて法典にもとづいて体系的に運営するという、きわめて中央集権的なシステムであり、日本や朝鮮などの東アジア諸国にも大きな影響を与え、その統一国家の形成に多大の役割を果たした。律・令・格・式のうち、律は刑法、令は行政に関する規定、格は追加規定、式は施行細則に当たる。
三省六部
律令官制の中核をなす中央行政機関を、三省・六部・九寺・一台と呼び、とくに三省と六部が政治の中枢機関であった。
九寺は、それぞれ特定の任務に従事する専門官庁で、外務官庁である鴻臚寺はそのひとつである。
一台は、御史台をさし、官吏の不正の監視・摘発をおこなう監察機関であった。律令官制は体系的であったが、社会の変化に必ずしも対応しきれない固定的な面もあったので、のちになると、政策実施上の必要から、節度使や塩鉄使などの「使職」をはじめとする、さまざまな令外の官がおかれることになった。
律令体制における民衆支配は、均田制・租庸調制・府兵制を不可分のものとして運営するものであった。
均田制
租調庸制
租調庸は、租は丁男あたり粟(穀物)2石(約60ℓ)、庸は年間20日の労役(またはかわりに1日につき絹・絁は3尺、布は3尺7寸5分で代納)、調は綾・絹・絁2丈と綿3両、または麻布2丈5尺と麻3斤を納めるものである。
このほか雑徭という地方官庁での労役(年40日以内)や府兵の義務があり、全体として丁男の負担は重かったといえる。
府兵制
府兵制は、西魏に始まる兵制で、兵農一致を特色とした。唐では各地に折衝府を設け(最も多い時で630余ヶ所にのぼり、とくに長安、洛陽の周辺に集中しておかれた)、おおむね丁男3人に1人の割合で府兵を選び、3年に1回農閑期に訓練を施した。府兵には、都の警備にあたる衛士や辺境の防衛にあたる防人として勤務する義務があり、その服務期間中は租庸調を免除されたが、武器・衣服などは自弁せねばならず、その負担はきわめて重かった。
唐の混乱
7世紀末になると、唐は内部から動揺しはじめた。則天武后(位690〜705)は、太宗(唐)の後宮から高宗(唐)の皇后となり、高宗の晩年にはかわって政務を執り行うようになった。武后は、高宗(唐)が没すると、すでに即位していた実子の中宗(唐)を廃し、かわった睿宗(唐)をも退位させてみずから帝位につき、国号も唐にかえて周と称した(武周革命)。
こうして中国史上唯一の女帝となった武后について、古来中国では、儒教的な女性観も手伝って、悪逆非道の君主のようにいわれてきた。たしかに武后は、酷吏と呼ばれる秘密警察官僚を駆使し、陰惨な恐怖政治をしいて反対勢力を弾圧したが、これによって勢力ある功臣や有力な貴族官僚(とくに関隴系門閥)が除去され、一方で科挙を重視して才能ある者を積極的に登用したので、中央集権が推進され、むしろ皇帝権力の基盤が強化されたという一面がある。
また仏教を統治に利用し、州ごとに大雲寺を設置したが、これは日本の国分寺制度の範となった。
則天武后の死後、唐は再興され、中宗(唐)が復位したが、中宗の皇后である韋后は、則天武后をまねて政治の実権を握ろうとし、中宗を毒殺してその子を擁立しようとした。しかし睿宗(唐)の皇子李隆基(のちの玄宗)がクーデターによって韋后を倒し、ようやく政治混乱に終止符を打った。
この則天武后から韋后にかけての政治混乱の時代を「武韋の禍」とも呼ぶ。
玄宗の政治と唐の衰退
韋后を倒して即位した玄宗(唐)は、治世の前半は意欲的に政治に取り組み、開元の治と称される唐(王朝)全盛期をもたらした。都の長安は空前の賑わいを見せ、文化は爛熟期を迎えた。しかし、この繁栄の裏側では深刻な社会問題が発生しており、律令体制のほころびが明らかになっていたのである。
その第一は、均田農民の没落である。前述のように均田農民にとって府兵の負担はきわめて重く、すでに則天武后のころから、均田農民が土地を捨てて逃亡する逃戸の増加が問題となっていた。このため開元中期には、逃戸をあらたに戸籍につける括戸と呼ばれる政策が財務官僚宇文融によって推進されたが、結局は挫折に終わった。こうして府兵制は、開元後期には実質的に崩壊し、740年に完全に停止され、健児と呼ばれる職業兵士を雇用する 募兵制に移行した。
第二には、服属民族の唐朝に対する反抗・自立の動きが活発化し、羈縻政策が破綻したことである。このため、辺境を強力な軍事力によって防衛する必要が生じ、十節度使(藩鎮)が設置された。
節度使は、辺境防衛のため、兵権のみならず、管轄区域の民政権・財政権もあわせもつという強大な権限を委ねられていた。また751年、タラス河畔の戦いで高仙芝率いる唐軍がアッバース朝の軍隊に大敗した事件は、唐(王朝)の対外的な退勢を明らかに示すものであった。
玄宗(唐)の治世後半の天宝年間(742〜756)になると、玄宗自身も政治に飽き、気に入りの寵臣を重用し、愛妃楊貴妃との愛情生活におぼれるなど、政治の乱れが目立ってきた。寵臣のひとりソグド系の部将安禄山(705〜757)は、たくみに玄宗(唐)の信任をえて、北辺の3節度使(范陽・平盧・河東)を兼任するまでに出世した。
一方、朝廷では楊貴妃の一族の楊国忠が宰相として実権を握っており、玄宗(唐)の恩寵を安禄山と争って対立した。このため755年、安禄山は楊国忠打倒を掲げて突如挙兵し、たちまち洛陽・長安をおとしいれ、大燕皇帝と自称するにいたった。玄宗は蜀へ落ち延びたが、途中で部下の兵士の不満をなだめるため、最愛の楊貴妃に死を命じねばならなかった。
楊貴妃と「長恨歌」
「長恨歌」とは、白居易が現像と楊貴妃の恋愛とその悲劇的な結末を主題としてつくった叙事詩である。この詩は、発表と同時に大変な反響を呼び、白居易の代表作のひとつとされ、中国ばかりでなく、日本でも愛好されて、紫式部の『源氏物語』などの日本文学にも大きな影響を与えている。「眸を廻らしてひとたび笑えば百媚生じ、六宮の粉黛顔色無し」(視線をめぐらせて微笑めば百の媚態が生まれる。これには後宮の美女の化粧顔も色あせて見えるほどだ。)とうたわれた楊貴妃は中国史上第一の美女と讃えられているのである。楊貴妃は唐の時代を反映している樹下美人図や唐三彩にみられるようなタイプの美女の代表であった。
この反乱は、安禄山の死後、子の安慶緒、さらに部将史思明父子によって継続されたため、安史の乱と称され、約9年におよぶ大乱となったが、ウイグルの援助などにより、ようやく鎮圧された。しかし、安史の乱は唐(王朝)繁栄を一挙にくつがえし、唐(王朝)の政治・経済・社会の各方面に重大な変化をもたらした。
まず政治面では、安史の乱に際して、唐朝は内地にも藩鎮をくまなく設置して、各地の防衛にあたらせたが、この藩鎮が強大な地方権力に成長し、しばしば朝廷に反抗して唐朝を苦しめた。
中央政界では、安史の乱後に皇帝の親衛隊(神策軍)を掌握した宦官が絶大な権力を持つようになり、のちには皇帝の廃立をも自由に操り、「門生天子、定策国老」とまで称されるようになった。
また唐朝を支えるべき官僚層も、出自の違いや政策の相違によって派閥抗争をくりかえし、とくに9世紀半ばには、牛僧孺と李徳裕を首領とする牛李の党争と呼ばれる激しい派閥抗争が展開され、政治の混乱に拍車をかけた。
次に経済・社会面では、安史の乱後、均田制・租庸調制は完全に崩壊し、780年、徳宗(唐)の宰相楊炎により、両税法が施行された。
両税法は、土地私有を公認した画期的な税制であり、戸(家)を単位として土地(資産)の多少に応じて課税し、毎年夏・秋に徴収するもので、以後、宋をへて明の中期にいたるまで基本税制として継承された。
また安史の乱のころより、塩の専売が開始され、国家の重要な財源となったが、高価な塩を買わされる民衆の困窮は増した。
塩の専売
塩は人間の生活にとって欠かすことのできないものである。しかも中国のような広大な国土をもつ国ではかなり生産地が片寄っており、その供給は人々にとってきわめて重要である。塩の専売は、かつて前漢の武帝(漢)時代におこなわれていたが、それ以後はあまり大規模にはおこなわれてこなかった。安史の乱という非常事態のなかで、財務担当の任にあった第五琦は専売の利益に着目し、産塩地に役所をおき、塩鉄使という専門の役職を設けてこれにあたった。この結果、原価の十数倍の利益をあげて、唐朝の重要な財源となったのである。しかし、唐末には塩商人が暗躍し、闇の塩(私塩)が出回った。唐朝を滅亡に追い込んだ黄巣が塩の闇商人とされるのは象徴的である。なお塩や茶などの専売収入は、これ以降の歴代の王朝にとって重要な収入源となった。
9世紀後半になると、唐(王朝)衰退はいよいよ進行し、政治腐敗によって民衆の生活は困窮の度を増した。こうした中、塩の密売商人で科挙の落第生ともいわれる黄巣が、仲間の王仙芝とともに挙兵すると、窮乏した民衆がつぎつぎと参加して巨大な民衆反乱となった( 黄巣の乱 875〜884)。
黄巣軍は全中国を荒らしまわり、長安を占領して勢力をふるったが、反乱軍から寝返って唐朝の汴州節度使となった朱全忠や突厥沙陀部の援軍により、かろうじて鎮圧された。
しかし、この反乱によって唐の支配は事実上崩壊し、各地の藩鎮が公然と自立・割拠するなかで、907年、唐は朱全忠(後遼の太祖)によって滅ぼされ、中国は五代十国の分裂時代へと突入した。
隋唐の社会
隋唐時代には、中央集権体制が強化され、貴族層は魏晋南北朝時代に比べると大きく勢力を後退させたが、なお大きな政治・社会的勢力を保持していた。そうした意味で、隋唐時代は貴族政治の末期、終焉期として捉えることができる。
科挙
隋代に開始された科挙は、唐代に入って大きな発展をとげた。科挙には、詩文の創作を中心とする進士科や、儒教の教義を中心とする明経科などがあったが、唐代では進士科がもっとも重んじられ、高級官僚への登竜門として大変な難関となっていた。
しかし唐代には、科挙に合格しただけでは高官になることができず、実際に任官されるためには、吏部でおこなう試験(銓選)に合格しなければならなかったが、そこで審査されたのは、「身(容姿)・言(言語)・書(筆跡)・判(公文書の文体)」といった貴族的教養であった。また高官の子弟には、父祖の官位によって無試験で官位を与えられる制度(門蔭の制)や、国立大学である国子監への入学特権など、さまざまな優遇処置があった。科挙(進士科)にしても、合格者の多くは貴族層に属する人々であった。
官人永業田
また、土地国有を理念とする均田制のもとでは大土地所有が抑制されたが、官僚身分に対しては官人永業田と呼ばれる土地所有が公認されていた。しかし、九品中正という制度的特権を失った唐代の貴族層にとって、手段をつくして代々朝廷の官職につくことが重視され、そのため官界での活動や社交に有利な長安・洛陽への一族をあげての移住が進み、貴族層はしだいに地方における大土地所有という基盤から分離する傾向が強まっていった。この傾向は、安史の乱による地方の荒廃によっていっそう進行し、貴族層は王朝権力に密着した 官僚貴族となっていった。
一方、両税法による土地所有の公認により、地方には、貴族層にかわってあらたに大土地所有を実現した 新興地主層が勢力をのばしていった。こうして土地所有という基盤を失って王朝権力に寄生する存在となった貴族層は、唐朝の滅亡と運命をともにして滅びていったのである。
東西貿易
唐は中央アジアにおいて、最初はササン朝、のちにウマイヤ朝やアッバース朝と領土を接したため、陸路による東西貿易が発達した。そしてソグディアナ地方出身のイラン系のソグド人が中継商人として活躍した。また海路からはアラビアなどのムスリム商人が来航し、その貿易の窓口となった広州には、彼らの居留地区(蕃坊)がつくられたほか、貿易管理局として市舶司が設置された。
西域文化
首都長安は、当時人口100万を数える大都市で、異国情緒に満ちた国際色豊かな都市であった。当時の中国には西域の商人とともに彼らの文化が流入し、ソグド人に代表される西域出身者を胡人と呼び、長安には、胡姫(西域出身の女性)がもてなす酒場が賑わい、胡楽(西域音楽)・胡旋舞(体を旋回させる西域の舞踊)・打毬(ポロ競技)など西域の風俗が流行した。小麦を製粉して食べる風習(胡餅)も西域から伝わって、唐代に定着したものである。
国際性
また、蕃将と呼ばれる非漢族出身の将軍(タラス河畔の戦いで敗れた高句麗出身の高仙芝こうせんしやソグド系の安禄山はその一例)が活躍し、インドからは密教の高僧が相ついで渡来したほか、日本や新羅など東アジアの諸国からも多数の留学生や商人が来訪するなど、その国際性は中国歴代王朝のなかでも極立っている。日本の正倉院の宝物に西域の文化的影響がみられるのは、唐の国際性の反映である。
坊市制
長安は、政治都市としての性格が強く、街路によって碁盤の目状に区画された坊には囲壁と坊門があり、夜になると閉められるので、夜間は坊から出ることはできなかった。商業は東市・西市の国営市場において管理されていた。しかし、唐の後半になると貨幣経済の発展にともない商業が急速に活発化し、坊市制や国家による商業統制は崩壊にむかった。
商業
商人は行と呼ばれる同業者組合をつくり、また倉庫業や金融業も発展して、飛銭と呼ばれる送金手形なども使われるようになった。また、地方には草市と呼ばれる市場ができ、宋代にかけて鎮や市と呼ばれる小商業都市にに発展していった。
唐代の文化
唐代の文化は、北朝の剛健な文化と南朝の華麗な文化が融合され、そのおもな担い手は官僚化した貴族層であり、貴族的な色彩が強かった。また外国の文化が陸路・海路を経由して流入したために、著しく国際的な性格を形成した。こうした唐(王朝)文化は、東アジア全域に影響を与え、東アジア文化圏と呼ばれる広大な文化圏が形成された。
宗教
儒学
分裂した魏晋南北朝時代のあとをうけて唐代になると、これまでおこなわれた諸解釈(訓詁学)を整理統一しようという気運がおこった。太宗(唐)の指示をうけた孔頴達は、『五経正義』を編纂して公式の解釈を定め、この書は科挙のテキストとして尊重された。しかし、唐の科挙において経書の解釈はそれほど重視されず、また『五経正義』成立の結果、これ以外の解釈は認められないこととなったため、唐代の儒学は全般的に停滞した。
後半になると、経典の批判的・合理的解釈をめざす動きがあらわれ、従来の型にとらわれない文章を志向する 古文運動の興隆と密接に結びつきながら、自由な経書解釈による新しい儒教思想への胎動が始まった。
古文運動の指導者である文豪韓愈は『原道』『原性』を著し、宋学の先駆者として位置付けられる。
仏教
思想・宗教・文化の面で全盛をきわめたのは仏教である。隋代には、天台大師智顗が高度な教学を大成して、わが国の仏教にも大きな影響を与えた。唐代には、玄奘や義浄らはインドに赴き多数の経典をもち帰り、またインドや西域の僧侶も多数来朝した。
インド出身の金剛智・不空らにより密教が中国に伝えられ、急速に普及したことは、その一例である。
唐(王朝)前半には国家の保護のもとに精力的に仏典の翻訳(訳経)事業がおこなわれ、主要な諸宗派が確立した。しかし、唐後半になると、しだいに実践的色彩の強い禅宗や浄土宗が仏教の中心的地位を占めるようになっていく。
唐代の寺院は、繁栄の陰で大土地所有や税役逃れをおこない、国家にとって財政上の問題ともなり、僧尼には証明書(度牒)を発行して制限しようとした。しかしこれらの政策はうまくいかず、845年には武宗による大廃仏が断行されている(会昌の廃仏)。
三武一宗の法難
中国史上、前後4回にわたっておこなわれた仏教の弾圧事件を総称して、三武一宗の法難さんぶいっそうのほうなんと呼ぶ。「三武」とは、太武帝(北魏)・武帝(北周)・武宗(唐)であり、「一宗」とは五代後周の世宗のこと。こうした仏教弾圧事件の直接の原因はそれぞれ異なるものの、背景には寺院・僧尼の増加により、生産に従事しない者や税をおさめないものが増加し、教団の腐敗も目に余るという事情があった。また前3回の事件では、仏教と対立する道教側の策動が廃仏の大きな誘因となった。
道教
唐は、道教の祖ともいうべき老子が同じ李姓であることから道教を帝室の宗教として位置付け、厚い保護を与えた。
唐(王朝)皇室には不死を願い丹薬(水銀など危険な成分が含まれていることがあった)を愛好するものが多く、逆に寿命をちぢめた皇帝もいた。
外来宗教
唐(王朝)文化の国際性を示すものに、「唐代三夷教」と呼ばれる祆教・景教・マニ教とイスラーム教の流入がある。祆教・景教・マニ教はいずれも西アジアのササン朝で信奉されていた。しかしササン朝の滅亡によって、新しい拠点を東方に求めねばならなかった。またイスラーム教は、ムスリム商人とともに伝わったものである。
祆教
ペルシアにおこったゾロアスター教のことで、火を儀式に用いることから拝火教とも呼ばれる。中国には北魏時代に伝来し、イラン系の人々を中心に信仰された。
景教
ネストリウス派キリスト教のことで、エフェソスの公会議(431)において異端とされたのち、シリア・ペルシアへと拠点を東に移しながら教会を維持し、積極的な布教活動を展開した。
中国へは635年に阿羅本が来朝して布教を開始した。唐では景教と呼ばれ、その寺院は、はじめ波斯寺と称し、のちに大秦寺と改称された。波斯はペルシアのことであり、大秦はローマのことである。781年には景教の流伝を記念した大秦景教流行中国碑がたてられた。
マニ教
ササン朝において、マニ(216〜276)がゾロアスター教をもとに、キリスト教・仏教などの諸要素を融合させて創始した宗教である。則天武后のころに伝来し、漢訳経典もつくられ、マニ教を信奉するウイグルとの友好関係を維持する目的もあって、唐では保護政策をとった。
イスラーム教
アラビアのムスリム商人(唐では大食と呼ばれた)によってもたらされ、広州などにはイスラーム寺院(モスク, 清真寺)も建立された。唐代にはイスラーム教は清真教と称されたが、のちにウイグル(回紇)の後裔を含む西域諸民族がイスラーム教に改宗したことから、回教(回回教)とも称されるようになった。
文学
唐(王朝)時代は、唐詩と称されるようにさかんに詩がつくられ、すぐれた作品が多く残されている。科挙でも詩文の才は非常に重要視された。
初唐(7世紀)
初唐(7世紀)は、六朝時代の余風をうけて優雅な作品が尊重された。
文章では、六朝時代同様に四六駢儷体が尊重されたが、しだいに形式にとらわれない自由な文体もみられるようになった。
盛唐(8世紀後半まで)
盛唐(8世紀後半まで)は、唐(王朝)全盛期である玄宗時代を中心とする。
この時代には「詩仙」「詩聖」と称される李白・杜甫を頂点として、王維・孟浩然・岑参などの大詩人が現れて唐詩の全盛期となった。
中唐(8世紀後半〜9世紀前半)
中唐(8世紀後半〜9世紀前半)は、盛唐のあとをうけて個性豊かな独自の詩風の作品が生み出された。代表的詩人としては、韓愈・柳宗元・白居易や、怪奇・幻想的な詩風から「鬼才」と称された李賀などが知られている。このうち韓愈・柳宗元は、四六駢儷体を廃して古文に復帰することを主張し、いわゆる唐宋八大家(唐・宋代に活躍した大文章家)にもあげられる。
晩唐(9世紀中ごろ以降)
晩唐は、耽美的・退廃的な詩風で知られるが、この時期にも杜牧や李商隠など、著名な詩人が輩出している。
なお、唐代には伝奇と称される短編小説も流行したが、その主たる担い手は官僚貴族層であった。
李白と杜甫
李白・杜甫はいずれも安史の乱を挟む玄宗朝の繁栄とその後の混乱期に生きた詩人である。この激動期が詩を中心とする唐代文学の絶頂期である。李白は「詩仙」と称される。酒好きで放浪をくりかえした生活そのままに、詩風も自由奔放で豪快なものが多い。一方、杜甫は、「詩聖」と称される。科挙の試験にうからず苦労しながら詩作に励んだ彼の詩風には、誠実と苦悩が滲み出ている。安史の乱により焼土と化した長安を「国敗れて山河あり」とうたった「春望」は名詩として名高い。
史学
唐初は魏晋南北朝という分裂・混乱時代のあとを受けて、活発な史書編纂事業がおこなわれた。また史書編纂のための機関である史館の制度も整備され、正史編纂の基礎となる実録作成の手順なども決められた。こうした史学の隆盛を背景に、史官であった劉知機は、最初の本格的な史論書である『史通』を著した。
実録:実録は、紀伝体の史書である正史に材料を提供するものである。皇帝ごとに編年体(年月日を追って記される形式)で記される。
書道
唐では書芸が尊重され、科挙にも明書(明字)科がおかれ、さらに官僚の選考基準にも「書」の審査があり、筆跡が重んじられた。唐初は六朝時代の王羲之の書風が尊ばれ、これを伝える欧陽詢と虞世南は、太宗(唐)に招かれて貴族の子弟に楷法を教授した。この2人に褚遂良を加えて初唐の三大家と呼ぶ。
唐(王朝)中期ころになると、旧来の貴族社会はしだいに行き詰まりをみせ、これまでの典雅な楷書にかわって自由な書体が追求された。顔真卿は王羲之の書を習得した上で、力強い筆画に隷書の筆法を取り入れ、革新的な書風を生み出した。その書風は、力強さの中に穏やかな美しさをこめた独特の楷書であリ、五代や宋以後の新しい書を生み出す原動力となった。
絵画
唐初の閻立本は、人物画の名手として知られる。玄宗期には仏画で知られる呉道玄や細密華麗な山水画を描いた李思訓がおり、詩人としても有名な王維は、「詩中に画あり、画中に詩あり」と称され、山水画にすぐれていた。後世、中国の絵画史では、李思訓を北宗画の祖とし、王維を南宗画の祖としている。
*王維画の真蹟は現存せず、彼を水墨山水の祖とするのは後世の誤りだとする説もある。
唐文化の波及と東アジア諸国
唐代に完成された律令などの制度や仏教に代表される文化は、日本を含む東アジア諸国に大きな影響を与え、これら諸国の国家形成に大きな役割を果たした。この時代を東アジア文化圏形成の時代と呼ぶのは、こうした唐文化の波及による。この時代の諸国は積極的に唐文化の摂取に努め、その影響はきわめて大きい。
新羅
朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の3国が鼎立し、これに日本が進出を企てるという状況であった。中国に統一国家ができると、隋・唐ともに高句麗に遠征軍を送り、攻撃を加えたが、高句麗はよく持ちこたえた。そこで唐は新羅と結ぶこととし、百済(660)・高句麗(668)をつぎつぎと滅ぼした。
なお663年に日本は百済の再建を目指して唐・新羅と白村江に戦ったが(白村江の戦い)、唐軍の大勝に終わり、日本は半島から手を引くこととなった。この後、新羅は唐(王朝)勢力を半島から退けて、統一国家を樹立した(676)。
新羅は都を金城(現慶州)におき、骨品制という独特の貴族支配により唐朝にならって官僚国家をつくり、仏教を奨励した。
慶州の仏国寺は当時の仏教の繁栄をしのばせる史蹟である。また新羅商人は活発な海上交易活動を展開し、山東半島や華中の港市には新羅人の居留地がつくられた。
日本
日本のヤマト政権では氏姓制による豪族を中心とする支配が続いていた。6世紀になると豪族間の対立抗争が表面化した。6世紀末に推古天皇の摂政となった聖徳太子は、十七条憲法を制定するなど諸制度を整備し、小野妹子らを遣隋使として派遣し、積極的に大陸の新しい知識や仏教を取り入れようとした。
聖徳太子の没後、政権は蘇我氏によって壟断されたが、中大兄皇子(天智天皇)・藤原鎌足らによって蘇我氏が打倒され(大化の改新 645)これを契機として、中央集権的な律令国家が形成されることとなった。中国文化を輸入するためさかんに遣唐使が派遣された。なかには阿倍仲麻呂(中国名:朝衡)のように唐(王朝)朝廷に仕えて高官(安南都護)になるものもあった。
8世紀、大宝律令(701)や養老律令(718)の制定、唐都長安を模した平城京(710)や平安京(794)の建設は、律令国家の完成を示すものであった。
文化面では、白鳳文化(7世紀前半)・天平文化(8世紀)など、仏教や中国の文化的影響の強い文化が形成されたが、9世紀後半、唐(王朝)混乱により、遣唐使が廃止されると、貴族的要素の強い国風文化が形成されていった。
日本の呼称
中国では、日本のことを古くは「倭」と呼んでいた。このことは『魏志』倭人伝によって広く知られるところである。中国の正史では『隋書』以前は「倭国伝」、宋代につくられた『新唐書』以後は、「日本伝」としている。五代につくられた「旧唐書」は「倭国伝」「日本伝」の両方を記しており、唐代に日本という呼称が定着したことがわかる。聖徳太子摂政時代の遣隋使が対等の外交を模索し、その国書に「日出処の天子、日没する処の天子に書を致す」と記したことはよく知られているが、『旧唐書』日本伝では遣唐使の態度を「多くみずから大をほこる」と記している。新羅の台頭に対し、国際的な立場の強化に努めようとする苦心が感じられ、「日本」という呼称もこうした国際的対面を重視した結果、7世紀末に生まれた呼称とみることができよう(701年制定の大宝律令で法的に定まった。)。
渤海
渤海(698〜926)は、高句麗の遺民大祚榮がツングース系靺鞨族を統一して、現在の中国東北地方に建国した。698年震国と称し、713年唐に朝貢して渤海郡王に封ぜられたので、以後渤海と称した。唐の文化を積極的にとりいれ「海東の盛国」と呼ばれ、日本ともひんぱんに交流した。都を上京竜泉府におき、中国式の都城を営んだ。のちに契丹によって滅ぼされた。
吐蕃
吐蕃(7〜9世紀)は、チベットにおいてソンツェン・ガンポが建国した。吐蕃は国力が強大となり、しばしば中国に侵入したので、唐は皇女(文成公主)を降嫁し、その慰撫につとめた。吐蕃はインド系の仏教(密教)を受容し、チベット仏教(ラマ教)の基礎が形成され、また、インド系の文字をもとにして独自のチベット文字がつくられた。安史の乱によって唐が衰え始めると、吐蕃は勢力を拡大し、敦煌を占領し、一時長安にも侵入(763)するなど、唐を苦しめた。823年、ラサにたてられた「唐蕃会盟碑」は、両国の和約を記したものであるとともに、漢文・チベット文で書かれており、言語学上においても貴重なものとなっている。
南詔
南詔(不明〜902)は、雲南地方において、唐と吐蕃の間隙をぬって、7世紀末〜8世紀前半にチベット・ビルマ系の人々が建国した。唐(王朝)文化をとりいれ、漢字を公用し、仏教の奨励に努めたが、唐が衰えると、しばしば四川地方に侵入して、唐を苦しめた。しかし10世紀初め、内紛によって滅亡した。その後、南詔に服属していた段氏が大理国(937〜1254)をたて、モンゴルのフビライに滅ぼされるまで存続した。
ベトナム(南越)
この地は、古く秦の始皇帝や武帝(漢)の遠征がおこなわれてことによっても知られるように中国と密接な関係にあった。その結果、中国文化とのかかわりも深い。唐は、622年にハノイに大総管府をおき、679年に安南都護符をおいた。こうした唐(王朝)支配は9世紀の後半まで続いたが、南詔などの侵入に苦しんだ。なお、遣唐使として中国に渡った日本人阿倍仲麻呂は、この地の都護に任命されている。
東アジア諸地域の自立化
唐末五代の社会
8世紀初めより、唐は異民族に備えるため、辺境に節度使を設置したが、 安史の乱後、反乱に対処するために内地にも多く配置するようになった。
これらの節度使は、 黄巣の乱以降、中央政府の弱体化に乗じ、私兵をたくわえて各地に割拠し、軍事権ばかりでなく行政権や財政権も掌握して、藩鎮と呼ばれる強力な地方勢力を形成し、半独立化した。このような武人(軍人)の台頭は、武力による専制的な 武断政治をもたらし、貴族の政治的・社会的基盤を奪って、彼らを完全に没落させていった。
一方、貴族にかわって社会の支配階層として登場してきたのが、 佃戸制に経済的基礎を置く 新興地主層である。彼らは、宋代になると形勢戸と称され、官僚の供給基盤となり、官僚を出した家は、官戸と称され、あらたな支配階級である士大夫階級の母体となった。
唐末、黄巣の乱を鎮圧するのに功のあった節度使出身の朱全忠(太祖)は、907年、唐を倒して後梁をたて、大運河と黄河の接点にある汴州(開封)に都を定めた。以後、河北には後梁・後唐・後晋・後漢(五代)・後周の5王朝が交替し、その他の地方でも節度使が割拠して10国をたて、約50年間の分裂時代が続いた。この時代を五代十国と呼ぶ。
江南諸国の発展
十国のうち、呉を倒して建国した南唐は、金陵(現南京)に都をおき、一時江南の大部分を支配して文化も栄えた。その第2皇帝李煜(後主)は詞(漢文で書かれた詩の一種で、節をつけて歌われた)の名手として知られる。
杭州にあった呉越は、平安時代の日本にも使節を送っている。広州に都をおいた南漢は、南海貿易の中心であった。山西省にあった北漢は、後漢(五代)の後裔で、遼の援助をうけた。
前蜀・後蜀は四川、荊南は華北、閩びんは福建、楚は湖南にあった。荊南は、小国であったが商業で繁栄し、その首都江陵には最大の茶市があった。楚も茶の産地で、養蚕業もさかんであり商人を優遇した。
歴代皇帝
- 高祖神尭大聖大光孝皇帝(李淵、在位618年 – 626年)
- 太宗文武大聖大広孝皇帝(李世民、在位626年 – 649年)
- 高宗天皇大聖大弘孝皇帝(李治、在位649年 – 683年)
- 中宗大和大聖大昭孝皇帝(李顕、在位683年 – 684年)
- 睿宗玄真大聖大興孝皇帝(李旦、在位684年 – 690年)
- 中宗大和大聖大昭孝皇帝(李顕、在位705年 – 710年) 中宗復位
- 殤帝(李重茂、在位710年)
- 睿宗玄真大聖大興孝皇帝(李旦、在位710年 – 712年) 睿宗復位
- 玄宗至道大聖大明孝皇帝(李隆基、在位712年 – 756年)
- 粛宗文明武徳大聖大宣孝皇帝(李亨、在位756年 – 762年)
- 代宗睿文孝武皇帝(李豫、在位762年 – 779年)
- 徳宗神武聖文皇帝(李适、在位779年 – 805年)
- 順宗至徳弘道大聖大安孝皇帝(李誦、在位805年)
- 憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝(李純、在位805年 – 820年)
- 穆宗睿聖文恵孝皇帝(李恒、在位820年 – 824年)
- 敬宗睿武昭愍孝皇帝(李湛、在位824年 – 826年)
- 文宗元聖昭献孝皇帝(李昂、在位826年 – 840年)
- 武宗至道昭粛孝皇帝(李炎、在位840年 – 846年)
- 宣宗元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝(李忱、在位846年 – 859年)
- 懿宗昭聖恭恵孝皇帝(李漼、在位859年 – 873年)
- 僖宗恵聖恭定孝皇帝(李儼、在位873年 – 888年)
- 昭宗聖穆景文孝皇帝(李傑、在位888年 – 904年)
- 哀帝・昭宣光烈孝皇帝(李祝、在位904年 – 907年)
- 李熙は、674年高宗によって献祖宣帝と追号された。
- 李天錫は、674年高宗によって懿祖光帝と追号された。
- 李虎は、618年高祖によって太祖景帝と追号された。
- 李昞は、618年高祖によって世祖元帝と追号された。
- 李弘は、高宗によって義宗孝敬帝と追号された。
- 690年 – 705年、武則天により国号を周とされる。
- 譙王李重福は、710年に皇帝を称した。
- 李憲は、玄宗によって譲帝と追号された。
- 李琮は、粛宗によって奉天帝と追号された。
- 李承宏は、763年に長安を一時占領した吐蕃に帝位につけられた。
- 李倓は、代宗によって承天帝と追号された。
- 襄王李熅は、886年に帝位につけられた。
- 李裕は、900年-901年に帝位についていた。