国府
奈良時代から平安時代に、令制国の国司が地方統治のための役所として拠点とした建物。国庁(政務・儀礼を行う政庁)・曹司(部門別役所)・正倉院(倉庫群)・厨(給食センター)・国司館などの施設が集まり、国分寺も近くに営まれて国内の政治・経済・文化・交通の中心として地方都市の様相をもった。
国府
律令国家の形成
平城京の時代
諸国には中央から派遣される国司の統治拠点として国府が、その下の郡には在地豪族である郡司の行政拠点となる郡家が地方の役所として営まれた。
国府・郡家
律令制の地方制度としては、全国の国々が畿内(のちの大和・河内・和泉・山城・摂津の五畿内)と七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)にわけられていた。
諸国はさらに国・郡・里(郷)の地方行政組織に編成された。国は複数の郡を統括する領域であり、郡(評)は律令制以前の国造制の「国」や屯倉を継承したと考えられる。里(郷)は戸籍に編成された50戸を1里として郡の下に設定された。
国には中央から貴族が国司として派遣されて国内統治にあたり、そのもとで郡には在地豪族が郡司に任じられ、里(郷)長がおかれてそれぞれの領域を管轄した。
地方統治のための役所として国司が拠点としたのが国府で、国庁(政務・儀礼を行う政庁)・曹司(部門別役所)・正倉院(倉庫群)・厨(給食センター)・国司館などの施設が集まり、国分寺も近くに営まれて国内の政治・経済・文化・交通の中心として地方都市の様相をもった。
また、郡司が拠点とした郡家も、郡庁・曹司・正倉院・厨・郡司館・駅家などの施設が集まり、近くに郡司氏族の氏寺も営まれるなど、郡内の中心であった。
これら国府・郡家の地方官衙の遺跡が各地の発掘調査により明らかになっている。
政庁(国庁(国衙))は中央政庁のミニ版であり、建物配置には共通する画一的な構造がみられる。政庁では、国司らが政務や儀式を行った。周囲を築地塀でめぐらし、正殿の南に前殿、東西に40m近い脇殿がある。政庁を中心として正倉、兵庫などがあった。
稲を収納する正倉、館などの建物からなっていた。建物の規模は比較的小さく、板塀と土塁で囲まれており、政庁と比べると建物配置には多様性が見られる。
10世紀の志太郡家に正倉がないのは、国司が直接田堵(負名)から徴税したからである。
伯耆国庁跡
伯耆国庁跡は、鳥取県倉吉市国府・国分寺に所在する、律令制下の地方行政の中心的施設の跡である。1985年(昭和60年)5月1日、国の史跡に指定される。