壬申の乱 律令国家の形成 672年壬申の乱要図 律令国家の形成
672年壬申の乱要図 ©世界の歴史まっぷ

壬申の乱


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壬申の乱じんしんのらん (672年7月24日〜8月21日)
天智天皇崩御後、天智天皇の同母弟で大王位継承者とされていた大海人皇子おおあまのみこと、天智天皇の長子(母は伊賀地方豪族出身)で、671年に政権に参画した大友皇子おおとものみことの間におこった大王位継承争いを発端とした大規模な内乱。大海人皇子軍は近江朝廷を滅ぼし、大海人皇子は天武天皇として即位した。

壬申の乱

天智天皇の実弟皇太子大海人皇子が兄を補佐して皇親政治を推し進めていたが、天智天皇は子大友皇子が長じるにしたがって,聡明な大友皇子を自分の後継者に望むようになったため,大海人皇子との間に不和を生じた。
同 10年正月天皇は大友皇子を太政大臣に任命し,蘇我赤兄そがあかえ中臣金なかとみのかねを左・右大臣に任じ,政治の表面から大海人皇子を締出した。
同年 10月大海人皇子は病床の天皇に招かれ,後事を託されたが拒否して東宮を辞し,出家剃髪してただちに兵器を納め吉野へ退いた。これは皇位への執着の疑いを受けないためであった。
同 12月天智天皇は崩御し,大友皇子が近江朝の主となると,大海人皇子は翌年6月24日挙兵して吉野を発し東国に向った。立ち遅れた近江朝側は苦戦を続け,同7月22日最後の一線であった瀬田川の戦いに敗れ,大津宮は陥落した。大友皇子は自害し,右大臣中臣金は斬られ,左大臣蘇我赤兄は流罪となった。勝った大海人皇子は,天武2年即位し天武天皇となり,古代天皇制は一層強化された。

参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 プラス世界各国要覧 2017

律令国家の形成

天智天皇が671(天智天皇10)年に死去すると、翌672年に、壬申の乱がおこった。
これは、天智天皇の同母弟で大王位継承者とされていた大海人皇子おおあまのみこと、天智天皇の長子(母は伊賀地方豪族出身)で、671年に政権に参画した大友皇子おおとものみことの間におこった大王位継承争いを発端としている。

671(天智天皇10)年正月に太政大臣だいじょうだいじんに任じられたとされる大友皇子おおとものみこは、10月に大海人皇子おおあまのみこが出家し、12月に天智天皇が死去した後は、近江朝廷の中心に立った。
江戸時代の学者は皇子の即位を主張し、1870(明治3)年、皇子は弘文天皇こうぶんてんのう追謚ついしされた。
しかし、実質的に朝廷の主であった皇子の即位そのものにこだわる必要はない。また、地方豪族を母にもつ大友皇子は、もともと即位できない立場にあった。
大海人皇子が大友皇子を倒した原因については、大海人皇子の後継者問題や鵜野皇女(のちの持統天皇)の意向もからんで、複雑な要因が存在したのである。
吉野に退いていた大海人皇子は、東国に脱出し、伊賀・伊勢を経て美濃を本拠とし、東国で徴発された数万の兵と、大伴氏を中心とする大和の諸豪族の兵を配下に収めた。大海人軍は飛鳥京を平定するとともに、大津宮を目指して近江路を進軍した。
一方、大友皇子は、西国の兵を徴発しようとしたが、白村江の戦いの動員で疲弊し、近江朝廷への不満を強めていた西国の地方豪族からの動員は思うようには進まず、ついに近江大津宮は陥落し、大友皇子は自殺して乱は決着した。大海人皇子は、683年に飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみやで即位した(天武天皇てんむてんのう)。
それまで「大王おおきみ」とされていた君主号にかわるものとして、「天皇」号が制定されたのも、天武朝出会ったと考えられる。中国の「皇帝」と対置し、中国皇帝の冊封さくほうを受けた新羅の「国王」よりも優位に立つ、「東夷の小帝国」の君主として、自らを位置付けようとしたのである。
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