多賀城
陸奥国府にあった政庁。出羽国・陸奥国の政治・蝦夷対策の拠点(鎮守府)。
724年、奈良時代・聖武天皇即位の年、政府の支配領域を広げるため東北の蝦夷に対する征東政策で築かれた城柵。11世紀中頃までの東北地方の政治・文化・軍事の中心地であった。
多賀城
律令国家の形成
平城京の時代
律令による中央集権的な国家体制が実現したことにより、充実した力をもった中央の政権は、支配領域の拡大にもつとめた。東北では、政府が蝦夷と呼んだ在地の人々に対して、7世紀半ばころから積極的に支配下に取り込む政策が追求された。唐の高句麗遠征に始まる東アジアの動乱のなかで、大化改新の直後には日本海側を北上して渟足柵(新潟市付近)・磐船柵(新潟県村上市付近)が設けられ、ついで斉明天皇の時代には安倍比羅夫が秋田やそれ以北の蝦夷とも関係を結んだ。しかし、この時代の政府の支配領域は、まだ日本海沿いの拠点周辺の範囲にとどまっていた。
8世紀には、さらに政府の支配領域を広げるため、蝦夷に対する征東政策が進められた。日本海側には712年に出羽国がおかれたのち秋田城(秋田市)が築かれ、太平洋側にも724年に多賀城(宮城県多賀城市)が築かれて、それぞれ出羽・陸奥の政治とともに蝦夷対策の拠点となった。蝦夷に対する政策は、帰順する蝦夷には禄や饗食を給する饗給を行う一方、反抗する蝦夷を武力でおさえつけるという二面をもっており、さらに夷をもって夷を制するという政策がとられた。
一方、南九州の隼人と呼ばれた人々の地域にも713年に大隅国がおかれ、多褹・掖玖(屋久島)をはじめ、薩南諸島の島々も政府との交易下に入ることになった。
多賀城政庁(第Ⅱ期)の復元模型
構造・建物の基本的な配置は城のイメージと異なり、国の政庁(国庁(国衙))とほぼ同じで、陸奥政庁、鎮守府がおかれた。のち鎮守府は胆沢城に移り、多賀城は政庁として機能した。
多賀城跡 附 寺跡
国の特別史跡データ
- 城郭構造 古代城柵
- 築城主 大野東人
- 築城年 神亀元年(724年)
- 廃城年 不明
- 遺構 政庁跡など
- 指定文化財 国の特別史跡「多賀城跡 附 寺跡」
- 位置 日本宮城県多賀城市市川城前 国指定特別史跡 多賀城跡
参考 Wikipedia