大宝律令
701(大宝元)年に成立。令は701年、律は翌年施行。文武天皇の命で、刑部親王・藤原不比等ら19人で編集。律6巻、令11巻は共に伝わらず、大宝令は『令集解』(養老令の注釈書)などに一部引用され、伝存する。
大宝律令
701(大宝元)年に成立。令は701年、律は翌年施行。文武天皇の命で、刑部親王・藤原不比等ら19人で編集。律6巻、令11巻は共に伝わらず、大宝令は『令集解』(養老令の注釈書)などに一部引用され、伝存する。
律令国家の形成
大宝律令と官僚制
文武天皇の即位後、持統太上天皇と藤原不比等の主導のもと、刑部親王を総裁として新たな律令の編纂が進められ、701(大宝元)年、わが国において初めて、律・令ともに備わった法典として完成した。これが大宝律令である(718(養老2)年には藤原不比等らによって養老律令がつくられ、757年に施行されたが、両者は内容的には大きな変化はなかった)。
この年、約30年ぶりに遣唐使の派遣を決定したが、それは唐に対して、この独自の律令、この時に定められた「日本」という国号、天武朝に改められた「天皇」という君主号、「大宝」とされた元号という4者を唐の皇帝に報告し、その許可を得るという任務を帯びたものと思われる。
唐の冊封を受けていた新羅と異なり、独自の君主号や律令・暦を持つことを認定されることで、「東夷の小帝国」として、新羅に対する優位性を主張しようとしたのであろう。
日本の国号
わが国の国号は、もとはヤマト政権の中心地である「やまと」が用いられた。一方、中国ではわが国を「倭」と称していたため、外交の場ではこれが用いられた(後世にも、「倭」を「やまと」と訓んだり、「日本」を「やまと」と訓んだりしている)。
他には、「大八洲」「葦原中国」「秋津島」などの呼称があった。しかし、基本的で国際的な国号である「倭」には、「小人」や「従順」などの意味があったので、律令制の成立とともに、新たな国号を「日本」と定めた。
中国の履歴書である『旧唐書』東夷伝日本条では、「日本国は、倭国の別種なり。其の国、日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。或いは曰はく、倭国、自ら其の名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す」と説明されている。新たな国号は、702(大宝2)年に派遣された遣唐使によって、中国に知らされたことであろうが、独自の君主号や律令、元号などと異なり、「日本」という国号は、中国の皇帝に容易に受け入れられ、承認されたものと思われる。
古代天皇制の性格
日本古代天皇制の性格に関しては、天皇を古代的専制君主であると理解する見解と、天皇を専制君主とはみなさず、律令制の実態を貴族制的支配、或いは貴族勢力による貴族共和制と理解する見解とが存在した。
しかし近年では、天皇と諸氏属層との対抗関係の存在を否定し、両者の相互依存関係を重視する見解が主流になりつつある。
そして日本古代国家における天皇の性格を、専制・非専制の二者択一で捉えるのではなく、その両面を併せもったものとして理解するという視点が必要となってきている。この二面性は、日本古代国家成立の様相に基づくものであり、激動の東アジア国際情勢に対しての現実的な関わりと、中国からもたらされた高度な統治理念の両方によって形成されたものであった。
また、古代の天皇制は、太陽神たる皇祖の子孫であるという伝承に支配の正当性を求めて、易姓改革による王朝交替を回避しようとした。
律は刑罰法で、養老律では497条あったと推定されている。令は教令法で、養老令では953条あったと推定されている。国家の統治組織、官人の任務規定、人民の租税・労役などを定めたものである。
この体系的な法典は、日本の社会の中から自生的に生まれたものではなく、中国が長い歴史の経験から生み出した先進的な統治技術を、ほぼそのまま継受したものであった。したがって、氏族制的な原理がまだ残存していた日本の社会においては、律令は「統治技術の先取り」という面があり、律令国家は中国的な律令制とヤマト政権以来の氏族制とが重層する二重構造を内包していたといえよう。
唐と日本の律令
日本の律令法は、7世紀末から8世紀初頭にかけて、唐の律令を導入することによって編纂された。
日本の律令は、唐の律令を母法とする継受法という側面と、固有法という側面とを、併せもっている。ただし、固有法とはいっても、隋・唐以前の中国南北朝の法制を朝鮮諸国を通じて導入したり、朝鮮諸国の国制を導入したりして、形成されていったのであり、どこまで日本固有のものかを判断することは難しい。
また、中国では儒教の基本である礼楽が、律令を支える社会思想として機能していたが、日本ではそれらを受容することはなく、律令は単なる支配の道具という側面が強かった。中国では律が先に編纂されたのに対し、日本では、令のみで律が編纂されなかった飛鳥浄御原令、令の方が先行して施行された大宝律令にみられるように、行政法としての令の方が優先された(令のみが現在まで伝わっているのも偶然ではない)。また、社会の発達の段階が、唐と日本では格段の差があった。氏族制的な原理が在地社会で生き続けていた日本においては、律令は「統治技術の先取り、もしくは目標」と認識されていたのである。
なお、唐の律令と比較すると、律は唐律をほぼ引き写したものであるのに対し(ただし、概して日本律の方が唐律よりも刑罰が軽い)、令は唐令を参照しながらも、日本の国情に合うように修正した箇所もある。例えば、家産分割法としての戸令応分条が日本では遺産相続法に変えられていたり、外祖父母の地位が中国に比べて高く規定されていることなどは、日本の社会構造に対応したものと考えられる。
律令で定められた統治機構は、まず中央に、神祇祭祀をつかさどる神祇官と、一般の行政事務を総攬する太政官の二官があった。太政官の下には八省があり、さらにその下に職・寮・司などの諸官司があって、それぞれの職掌を分担した。
国政の運営は、太政官の最高首脳である太政大臣(常置しなくとも良い「則闕の官」)・左大臣・右大臣・大納言からなる公卿(のちに中納言・参議が加わる)による合議によって進められ、その結果を天皇が裁可するという方法で行われた。
政務決済方式
国政に関わる法令が定立される過程は、最初に何者が案件を提起したかによって、三つに類別される。
第一に、案件の提起者が天皇の場合、その案件が臨時の大事であると、詔書が作成される。天皇が中務省に命じて起草した草案に議政官(公卿)が副署し、弁官が太政官符を作成して施行する。案件が尋常の小言であると、勅旨がが作成される。天皇が中務省に命じて起草した草案が弁官に送られ、弁官が太政官符を作成して施行する。
第二に、案件の提起者が議政官の場合、その案件が重要なものであると、議政官による審議の結果が天皇に上奏され(太政官湊)、天皇の裁可を得る。裁可を経た太政官湊は、そのまま施行される場合と、弁官が作成する太政官符によって施行される場合がある。案件が重要なものではないと、議政官の審議の結果が弁官に送られて、太政官符によって施行される。
第三に、案件の提起者が一般官司・一般官人・寺社・僧の場合、統属関係にある官司を経由して太政官に解という文書が上申されると、議政官がその案件を審議する。案件が重要なものであると、審議の結果が天皇に奏上され、天皇の裁可を得、弁官の作成する太政官符によって施行される。案件が重要なものではないと、太政官符によって施行される。
これらを総合すると、太政官、特に議政官の審議と、天皇の最終的な裁可が、重要な意味を持つことが理解されよう。日本古代の政治は、この両者の相互依存と妥協によって運営されていたのである。ただし、議政官の審議が、天皇と結びついた特定の氏族や権力者によって領導されたり、天皇の個性が極端に発露されたりすると、政治は極めて専制的な性格を帯びることになる。
公卿の下には、宮中の事務を行う扱う少納言、及び左弁官と右弁官があった。
左弁官は、中務省・式部省・治部省k・民部省の事務を総括し、右弁官は、兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の事務を総括した。
そのほか、官吏を観察する弾正台や、軍事組織としての衛府がおかれた。
衛府は、衛門府、左・右表衛府、左・右衛士府に分かれ、合わせて五衛府と称された。
一方、地方は大和国、山城国、河内国、摂津国を畿内とし(のちに和泉国が河内国から分置)、東海道・東山道・山陰道・山陽道・南海道・西海道を七道とした。行政区画としては、国・郡・里(のちに郷と改称)の3階にわけ、国に国司、郡に郡司、里に里長(郷には郷長)をおいて統治させた。
国司は中央の貴族の中から任命されて地方に下り、6年(のちに4年)の任期で交代したが、郡司はかつての国造などの地方豪族から選ばれて終身任じられ、また世襲も認められていた。各地方において、直接人民と接してこれを支配するのは、郡司や里長などの在地首長であり、律令国家は、国家と公民との間の関係と、在地首長と人民との間の関係としう、二重の支配関係の上に成り立っていた。
また、重要な地域には特別の官庁を設けた。京には左・右京職をおき、外交上の要地である摂津には難波を管轄する摂津職をおいた。さらには、外交及び国防上の重要要地である西海道に大宰府をおき、九州全般の民政及び軍事を総括させた。
大宰府
7世紀後半、筑紫、吉備、周防、伊予、坂東など、全国の要地におかれて周辺の数カ国を管轄していた総領(大宰)は、律令制の成立にあたって廃止されたが、朝鮮半島・大陸との外交・軍事の最重要地である筑紫のみは存続し、その名も単に大宰府と称されるようになった。
大宰府には、帥、大弐、少弐以下、600人近い官人が勤務し、多くの被管官司を従えていた。
その職掌は、対外的には軍事と外交を管轄し、内政上では西海道の9国3島を総轄する事であった。また、管内の租税はいったん大宰府に集められて府の費用にあてられ、一部を京進することとなっていた。
現在、福岡県太宰府市に政庁跡が残り、発掘調査が進められている。その結果、東西24坊(2.6km)、南北22条(2.4km)の大宰府条坊と、その北辺中央部の4町(0.4km)の政庁の存在が確認された。
それは単なる地方官衙の枠を超え、藤原京や平城京のミニチュア版といったものであり、まさに「天下の一都会」と称された「遠の朝廷」の名にふさわしい規模と格をもっていた。
四等官
四等官表
官職 | 神祇官 | 太政官 | 省 | 職 | 寮 | 衛府 | 大宰府 | 国 | 郡 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
長官 かみ | 伯 | 太政大臣 左大臣 右大臣 | 卿 | 大夫 | 頭 | 督 | 帥 | 守 | 大領 |
次官 すけ | 大副 少副 | 大納言 | 大輔 少輔 | 亮 | 助 | 佐 | 大弐 少弐 | 介 | 少領 |
判官 じょう | 大祐 少祐 | 少納言 左弁官 右弁官 | 大丞 少丞 | 大進 少進 | 大允 少允 | 大尉 少尉 | 大監 少監 | 大掾 少掾 | 主政 |
主典 さかん | 大史 少史 | 左外記 右外記 左史 右史 | 大録 少録 | 大属 少属 | 大属 少属 | 大志 少志 | 大典 少典 | 大目 少目 | 主帳 |
中央・地方の諸官庁には、それぞれ長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の四等官がおかれ、その下に多くの下級官人が配置されていた。
四等官の記載法は、官司の格によって異なっており、例えば長官には、左右大臣・卿・大夫・頭・督・帥・守など、さまざまな表記があった。
官位相当の制
官人は、その出自や出身に応じて位階を授けられ、その位階に相当する官職に任命された(官位相当の制)。官位は、親王は一品から四品まで、諸王は正一位から従五位下までの14階、諸臣は正一位から少初位下までの30階にわかれており、勤務評定によって昇進する規定になっていた。
律令国家の支配階級を構成したのは、皇族(親王・内親王)・皇親(諸王・女王)と官人であった。特に五位以上の官人とその家族が貴族と呼ばれ、多くの特権をもっていた。
まず、位階に対しては位田・位封・季禄・資人などが与えられ、官職に対しては職田・職封・資人などが与えられた。また、調・庸・雑徭などの負担が免除されたほか、刑罰についても減刑の特権をもっていた。
蔭位の制
また、蔭位の制といって、三位以上の貴族の子と孫、五位以上の貴族の子には、大学に入学しなくても、出身時に一定の位階が授けられるという特典があった。この制度によって貴族階層の再生がはかられ、特に藤原鎌足以来、代々正一位の官人を出した藤原氏は、この制度を利用して、多くの上級官人を排出することになった。
五刑
司法制度に目を移すと、刑罰には、笞・杖・徒・流・死の五刑があった。
笞と杖は、殴打数に応じて、徒は懲役年数に応じて、それぞれ5等にわかれ、流には流刑地に応じて近流・中流・遠流の3等があった。死には、絞と斬があり、斬の方が重かった。
八虐
日本律の刑罰は、中国に比べると穏やかな規定となっているが、それでも国家や社会の秩序を維持するため、国家や天皇、尊属に対する罪は、特に重く規定されていた。謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義の八虐は、有位者でも罪を減免されず、恩赦の際にも赦されない規定であった。
6.民衆の負担
戸籍
政府は、全国の人民を戸籍・計帳に登録することによって、律令体制による支配を末端にまで浸透させようとした。
戸籍は、戸を単位として人民一人ひとりを詳細に登録したもので、6年ごとにつくられ、戸を単位とした課役、良賎身分の掌握、氏姓の確定、兵士の徴発、班田収授などの基本台帳とされた。
計帳は、調・庸を徴収するための基礎台帳として全国の課口数の推移を把握するためのもので、毎年つくりかえられた。
人民は、「編戸の民」と呼ばれたように、いずれかの戸に組み入れられた。この戸50をもって行政単位としての里が編成された。この50戸1里制の戸は郷戸と呼ばれ、父系血縁で統合された複合大家族の形態をとり、それに寄口と呼ばれた没落した良民や、奴婢が含まれるように編成された(一時、この郷戸を分割した房戸という直系親族集団が構成されたことがある)。
班田収授法
戸籍に登録された全ての公民には、有位者と無位者、良賎の身分、男女の性などの別を問わず、そのすべてに既墾地が口分田として班給された(良民男性が2段(11.9a)良民女性がその3分の2、官戸・公奴婢が良民男女と同じ、家人・私奴婢がその3分の1というように、男女、良賎の別によて班給額に差があった)。
口分田の収授は、「六年一班」と呼ばれるように、6年に1回つくられる戸籍において、受田資格を得た者に口分田を班給し、その間に死亡した者の口分田を収公するというものであった。これを班田収授法という。
なお、そのほかの田地には、租を納める義務のある輸租田として、位田・功田・賜田、租を免除された不輸租田として、寺田・神田・職田(郡司の職田は輸租田)などがあった。
また、一般の戸口に対して永久に与えられた宅地や園地があり、これは売買自由とされた。さらに、山川・原野・沼沢などは共有の土地であったが、未開墾の土地については、律令には規定がなかった。
これらの田地は、班田に便利なように整然と区画された。これを条里制という。統一的な企画による条里制地割りが全国的に施行され始めるのは、和銅から養老年間の頃とされる。
地割りの方法は、水田地帯を360歩(648m)平方に区画し、その南北の一辺を条、東西の一辺を里と名付けた。この360歩四方の土地を里と呼び、それを36等分した60歩四方の土地を坪と呼んだ。坪はさらに1段ずつに10等分され、班田の基準となった。
租税
口分田の班給を受けた農民は、建前の上では最低限の生活を保障されたことになったが、その一方では、租・調・庸・雑徭などの重い負担を負った。律令国家の租税は、大別すると、土地生産物のうちの穀物を徴収する系列(租・公出挙・義倉など)、繊維製品、手工業製品・穀物以外の生産物を徴収する系列(調・庸・贄など)、公民の身役労働を徴収する系列(雑徭など)の3種があった。
租は、かつて農業共同体において行われていた初穂儀礼を起源とする。性別、身分、良・賎の別にかかわりなく、輸租田を耕作する者に、耕作面積に応じて一律に賦課され、収穫の約3%を稲で納めた。
公出挙は、春夏の2度、官稲(正税)を公民に貸し出し、秋の収穫後に本稲に5割の利稲を添えて徴収するもので、利稲は国府の重要な財源とされた(民間の私出挙もあった)。
義倉は、備荒貯蓄として、有位者以下、百姓・品部・雑戸にいたるまで、一定量の粟を徴収するものであった。
調は、地方の服属儀礼としてのミツギを起源とするもので、青年男性の正丁・次丁(残疾と老丁。正丁の2分の1の賦課額)・中男(17歳から20歳までの良民男性。正丁の4分の1の賦課額)に賦課された人頭税であった。繊維製品をはじめ、染料や塩・紙・食料品など、それぞれの国の特産物が徴収され納税者のうちから運脚の人夫が選ばれて、都まで運ばれた。
庸は、正丁に10日、次丁に5日、都にのぼって政府の命じる労役(歳役)の代納物として、布・綿・米・塩などを納めるもので、やはり運脚によって都まで運ばれた。
贄は、律令には規定はないが、藤原宮跡及び平城宮跡から出土した木簡に数多く見られる。多くは魚介類・海藻などの食品である。贄は、かつての共同体内での首長への食物貢納儀礼を起源すると考えられる。
雑徭は、正丁1人について年間60日以内(次丁は2分の1、中男は4分の1)、国司のもとで、国内の土木事業や、国・郡の役所の雑用などに使役する者であった。
身役労働については、そのほかに仕丁と雇役がある。
仕丁は、1里ごとに2人の割合で徴発され、都にのぼって中央官庁で雑役に従うものであったが、造営事業にも動員された。市長は調・庸・雑徭を免除され、粮食を支給された。
雇役は、造都・造営事業などのために都の周辺諸国の公民を強制的に雇用するというものであった。雇役民には粮食と日当が支給された。
仕丁・雇役はともに、往復の食料などは自弁であり、故郷に戻る途中で餓死したり、逃亡する者が絶えなかった。
これらの租税のほかに、人民にとって大きな負担となったのが兵役であった。これは正丁3〜4人に1人の割合で兵士を徴発するもので、兵士は各地の軍団に配属されて一定の期間、訓練を受けた。軍団は3〜4軍に一つずつおかれ、全国では約140を数えた。
訓練を受けた兵士は、衛士となって1年間都にのぼり、宮城や京内の警備にあたったり、防人となって大宰府におもむき、3年間、九州北部沿岸の防衛にあたったりした。防人にあてられた者は、ほとんどが東国の農民であった。一般の兵士は庸・雑徭を免除され、衛士や防人も調・庸・雑徭などは免除されたが、それぞれの戸の労働力の中心である正丁を徴発されるうえ、武装や食料を始め旅費の一部を負担しなければならなかったため、その負担は極めて重かった。
防人
古代に、九州北部の防備にあたった兵士のこと。663(天智天皇2)年の白村江の戦いの敗戦以降に整備された。
大宝令の制定によって軍団兵士制が確立すると、防人はその中に組み込まれ、諸国軍団兵士の中から派遣されることになったが、実際にはほとんどが東国出身の兵であった。
これは、ヤマト政権以来の舎人の遺制ともみられる。防人の数は約3000人と推定されている。防人となって大宰府にくだったものは3年間、九州北部沿岸の防衛に任じられたが、3年の勤務で交替するという令の規定は、必ずしも原則どおりには実行されず、帰郷できない防人も多かった。
また、防人は調・庸・雑徭などを免除されてはいたが、武装や難波津までの食料を負担しなければならなかったため、その負担は極めて重かった。
なお、『万葉集』巻20に、家族との別れなどを詠んだ東国防人歌が乗せられている。
律令制下の身分制度は、まず人民を良民と賤民に分けるものであった。
良民には、公民と呼ばれる一般農民のほか、皇族・皇親や貴族といった支配階級、公民よりも一段低い身分の品部・雑戸があった。品部・雑戸は、賤民ではないが半自由民で、特殊な工芸技術をもち、政府の工房で働き、調・庸の代わりに手工業製品を納入した。
賤民は、律令制成立後も解放されなかった不自由民で、陵戸・官戸・公奴婢(官奴婢)・家人・私奴婢という五色の賎にわけられていた。
陵戸は、課役の納入にかえて天皇の陵墓の守衛に当たるものであり、品部・雑戸に近い。
官戸と公奴婢は官有で公的雑務に使役され、家人と私奴婢は私人に隷属あるいは私有された。
また、官戸と家人は戸を構成し、使役されるのは本人だけであり、売買の対象にならなかったのに対し、
公奴婢と私奴婢は独立の生計を営むことは許されず、全員が使役され、財産として相続・売買・譲渡されるという、完全な不自由民であった。
これら賤民は、課役納入の対象外におかれていたので、中央の大寺院や貴族、地方の有力豪族など、奴婢を多く所有しているものは、経済的には大きな特権となった。