孝文帝
北魏孝文帝像 ©Public Domain

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孝文帝( A.D.467〜A.D.499)

孝文帝こうぶんていは、南北時代(中国)北朝北魏の第6代皇帝(在位471年9月20日 - 499年4月26日)。5歳で即位し20年間、祖父文成帝の皇后(馮太后ふうたいごう)が執政。親政開始後、洛陽への遷都を強行、胡服・胡語の使用を禁じ、鮮卑族の漢化を積極的に推進したが、死後、六鎮の乱が勃発、北魏滅亡の遠因となった。

孝文帝

漢化政策を強力に推進

北朝・北魏の第6代皇帝(拓跋宏たくばつこう)。胡太后こたいごう(孝文帝の皇后)の死とともに親政を開始。漢族の教養を身につけており、洛陽への遷都を強行、それまでの2字以上からなる姓を漢族風の1字姓に改め、胡服・胡語の使用を禁じるなど風俗習慣の漢化を進めた。

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漢化政策に失敗して北魏滅亡

北魏の皇帝。5歳で即位。20年間、祖父文成帝の皇后(馮太后ふうたいごう)が執政。親政開始後、騎馬民族鮮卑の漢化策を進めて「六鎮の乱」が勃発。北魏は滅亡。

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東アジア世界の形成と発展

東アジア世界の形成と発展 邪馬台国連合
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

北方民族の活動と中国の分裂

五胡十六国と南北朝

分裂状態の五胡十六国時代を経て、5世紀前半に鮮卑の拓跋氏たくばつしがたてた北魏ほくぎ太武帝たいぶていによって華北が統一された(439)。

その後、孝文帝のとき、均田制三長制をおこない、華北の荒廃した農村の復興をはかるとともに、税収の基礎を固めた。

三長制:北魏の孝文帝のときにおこなわれることになった村落制度で、5家をりん、5隣を、5里をとうとし、それぞれに長(隣長・里長・党長)をおいた。それぞれの長は役を免除され、戸口調査・徴税・均田制の実施などを担当した。

また、都を平城へいじょう(現山西省大同市)から洛陽らくように移し(494)、本格的に中国支配にのりだすとともに、鮮卑人の姓を漢人風に改めさせ、鮮卑の服装や言語を禁止するなど、徹底した漢化政策を推し進めた。

孝文帝の死後、漢化政策に反対する軍人の反乱をきっかけにして内紛がおこり、国力は急速に衰え、やがてとうぎ西魏せいぎに分裂した。

社会経済の変化
均田制は、北魏の孝文帝によって始められた土地制度である。五胡十六国時代の戦乱のため荒廃した華北の農業生産力を回復し、税収を確保することを目的としたもので、一定の基準で土地を農民に支給し、自作農をつくることを目指したが、その効果は一部にとどまった。
なお、特徴的なことは、奴婢・耕牛をも対象にして土地が支給された点で、これらの土地は、当然、奴婢・耕牛の所有者である豪族に帰属することになったわけであり、北魏の均田制が豪族に有利な側面をもっていたことは確かである。こののち、均田制は北朝を経て隋に受け継がれ、唐で整備された。
隋 文帝(隋)
均田制の比較 ©世界の歴史まっぷ

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均田制の比較表 – 世界の歴史まっぷ

このような土地へのさまざまな対応策も、国家がある程度の数の農民を確保し、税収の基礎を固めるのには役立ったが、豪族・貴族による大土地所有の進行をさまたげるまでにはいたらなかった。
とりわけ南朝では華北から流入する人々によって長江中・下流域の人口が急増し、江南の開発が進んだ。こうした状況のもとで、荘園や隷属民を所有する豪族・貴族は穀物、野菜、畜産、水産物、手工業製品などを自給する総合的な経営を推し進めた。そのため、一般民衆との経済力の差はますます開いていった。

詳説世界史研究

子女

  • 廃太子 元恂(母は林皇后)世宗宣武帝 元恪(母は高貴人)
  • 京兆王 元愉‐西魏文帝(西魏)の父、幼主の祖父
  • 清河王 元懌‐東魏孝静帝の祖父
  • 広平王 元懐‐孝武帝(北魏)の父
  • 汝南王 元悦
  • 元恌
  • 済南長公主(盧道虔の妻)
  • 義陽長公主(盧元聿の妻)
  • 順陽長公主(馮穆の妻)
  • 長楽長公主 元瑛(高猛の妻)
  • 蘭陵長公主
  • 淮陽長公主(乙弗皇后の母)

参考 Wikipedia

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