宋(王朝) 宋代の社会
清明上河図(部分)(張択端画)

宋(王朝)


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宋(王朝) (960年〜1279年)
北宋:960年、趙匡胤ちょうきょういん五代十国時代最後の後周から禅譲を受けて宋を建国。1127年、靖康の変により滅亡。首都は開封。
南宋:1127年、北宋最後の皇帝欽宗の弟趙構が南京で即位し宋を再興。1229年、崖山の戦いでモンゴル帝国に敗れ滅亡。首都は臨安。

宋(王朝)

東アジア世界の形成と発展

宋(王朝)
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

東アジア諸地域の自立化

北宋 北宋 – 世界の歴史まっぷ

李朝 西夏遠征 甘州ウイグル王国 国際関係の変化 西夏の成立 遼の成立 宋の統一 遼朝 天山ウイグル王国 西夏 カラハン朝 北宋 11世紀の東アジア地図
11世紀の東アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

南宋 南宋 – 世界の歴史まっぷ

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12世紀のアジア地図
宋代の社会

宋代の支配階層である新興地主階級は形勢戸けいせいこと呼ばれ、そのうち官僚を出した家は官戸かんこといい、官戸にはとくに差役さえきの免除などの特典が与えられていた。彼らは農業経営を基盤とする大土地所有者で、こうした土地を一般に荘園と呼び、荘園内の生産の基本的な担い手は、主として佃戸でんこと呼ばれる小作農であった。
佃戸には、収穫の5〜6割を地租として地主に収奪されるみじめな境遇のものもあったが、自作農が収入を増やすため地主の土地を耕す自小作農も存在し、この地位は一概にはいえない。
南宋時代になると、抗租こうそと呼ばれる佃戸の地主に対する小作料減免闘争もしばしばみられるようになった。

宋代の住民は、主戸しゅこ客戸きゃくこに大別され、主戸は現在地を本拠とし、客戸は本籍を離れたよそ者であった。主戸は土地所有面積と両税の額を基準として、1〜5等に分かれていた(戸等制)。すなわち1〜2等戸のような上等戸は、ほぼ官戸・形勢戸に該当する地主層であり、最下等の5等戸のほとんどは、零細な自作農や自小作農であった。

淮河以北の華北を金朝に奪われながら、南宋が150年もの間政権を維持できたのは、江南の穀倉地帯を確保できたからである。五代以来、江南のデルタ地帯を中心に、低湿地を堤防で囲んで干拓した圩田うでん囲田いでんと呼ばれる水利田が、王朝や在地の地主層の主導で造成された。また灌漑するために、竜骨車りゅうこつしゃという足踏み式ポンプも使用されるようになった。

水稲栽培技術にも革新があり、苗代つくりによる移植法や 施肥せひなど、集約的水稲栽培の基本形態が完成された。(これ以外にも、クリークの泥の客戸法や正条植え、多数回の除草などもおこなわれた。)稲の品種も、11世紀初めには干ばつに強く痩せ地にも適した早稲わせ種の占城稲せんじょうとう(チャンパー米)がベトナムから導入され、同世紀末には江南の水田の80〜90%がこの品種で占められたという。これを利用して1年2期作もおこなわれ、また麦の需要増加は、麦を裏作とする稲・麦の1年2毛作の発達を促した。この時代に江南、とくに長江下流デルタの稲作地帯は、「蘇湖そこ江浙こうせつ)熟れば天下足る」とことわざにもいうように、農業生産と経済の中心になった。こうして唐代まで華北にあった中国の農業と経済の中心は、完全に江南へと移行したのである。

稲や麦のような主要な穀物の生産力が向上すると、各地の商品作物の栽培や、遠隔地間の取り引きや手工業生産も盛んになった。は、唐代に一般的な日常の嗜好飲料として普及し始め、宋代にもこの傾向はますます強まり、都市には各所に茶館ができた。おもな生産地は長江下流域や四川地方で、宋は茶の消費の増加に着眼して専売制を実施した。また周辺の諸民族にも普及し、重要な貿易品ともなった。

陶磁器では青磁白磁に代表されるすぐれた宋磁そうじがつくられ、なかでも江西省北部の景徳鎮けいとくちんが中国第一の窯業都市として発展した。またこれ以外にも甘蔗かんしょ栽培(トウモロコシ)、絹織物や漆器、製塩業や製糖業などの手工業も発達した。

青磁:起源は周時代の灰釉陶かいゆうとうであるといわれる。

唐代までの都市は政治的性格が強く、商業は市という一定の地区内に限定され、夜間の営業も許されなかった。
宋代になると、商業の発達によってこのような坊市制は崩れ、昼夜の区別なく営業が許され、常設店舗をかまえる坐賈ざこという商人、遠隔地と取り引きをする客商きゃくしょう、問屋を営む牙行がこう、客商と生産者を仲介する牙人がじんという仲介人など、さまざまな形態の商人が活躍した。
また、地方(州・県の城外)の水陸交通の要地や寺社の門前にひらかれた草市そうしがもとになり、・店などの名で呼ばれる地方的な小商業都市が各地に成立した。

草市:城内の本来の市に対し、城外の小規模な都市を草市と呼んだ。

宋代には海外貿易も活発で、臨安(杭州)、明州泉州広州などの海港都市にはムスリム商人も往来し、南海貿易が栄えた。
唐代には広州のみにおかれていた市舶司しはくし(海外貿易を管理する官庁)も、宋代になると、これら海港都市にもれなく設置されるようになった。
なお、南宋〜元朝には、広州にかわって泉州が中国最大の貿易港として繁栄第一と称された。

商業上の決済のために商人が発行した手形の交子会子は、やがて政府にひきつがれて紙幣として発行された。

交子こうし:交子は四川の成都の金融業者が発行した預かり手形が有価証券として取引に使用されていたものを政府が引き継いで発行・流通させた世界初の紙幣である。
会子かいし:会子は、北宋時代の大都市の金融業者が発行した為替手形に由来し、南宋では政府によって兌換紙幣だかんしへいとして発行された。

しかし、のちに濫発により経済は混乱した。また、商人はこう、手工業者はさくと呼ばれる同業組合を結成し、相互扶助や営業の独占がはかられた。

開封の繁栄

秦漢以来、中国歴代王朝は、北方民族との対峙という軍事的観点から、要害堅固ようがいけんこの地である咸陽かんようや長安・洛陽を国都としてきた。
また、その都市の内部も、治安維持を優先するあまり、整然とした街路と、街路に区切られた坊と呼ばれる方形の居住区に住民を押し込め、夜間外出を禁止した。さらにこれらの都市は、夜禁の制によって、日没とともにすべての城門を閉じて人々の出入りを禁ずる、閉鎖的な性格をもっていた。
ところが、唐を滅ぼした朱全忠が後梁の国都に定めた開封は、江南からの穀物を輸送する大運河と黄河とが合流する要衝であった。すなわち、当時の流通経済の発展を背景に、軍事的観点よりも財政的条件が国都選定で優先されたことを物語っている。
開封も日没とともに城門を閉じたが、人や物資の移動が盛んになってくると、城門の外であれば、夜禁の制に関係なく夜間でも営業できるとして、旅館・飲食店・商店などがつぎつぎとたてられ、城外の市街地化も進んだ。城内の一等地には瓦市がしと呼ばれる繁華街が出来上がり、瓦市には茶館・酒楼といった飲食店、勾欄こうらんと呼ばれる演芸場がたてられ、早朝から深夜にいたるまで老若男女の庶民が集まって、繁栄をきわめた。
こうした開封の繁栄のさまは、『東京夢華録とうけいむかろく』という当時の書物に生き生きと描かれている。

清明上河図
宋(王朝)
清明上河図(部分)(張択端画)

春分から15日目が清明節で、厳しかった冬が過ぎ春の一日を人々祖先の墓参などで郊外にくりだして過ごした。こうした都の開封の賑わいを張択端ちょうたくたんが描写したものが「清明上河図」で、図はその一場面である。開封城内の商店街は買物客や行楽客であふれ、馬やロバやラクダまで行き交い、酒食を提供する二階建ての楼にも多くの人々がつめかけている。

宋代の社会 – 世界の歴史まっぷ

宋代の文化

唐(王朝)文化が国際的で異国情緒にあふれていたのに対し、宋の文化は遼朝・金朝・西夏の異民族の圧迫もあって、国粋的な傾向が強く、伝統的な民族文化に根づいた中国的なものであった。
また、優雅で華麗な唐(王朝)の貴族文化とは異なり、新しい支配層である地主・官僚などの士大夫階級を中心に、学問・思想・文学・芸術などで、形式美にとらわれない内省的で理知的な文化が発達した。こうした宋代の文化の発達は士大夫階級だけでなく、都市の経済的発展により登場してきた新興の庶民階級にも波及し、文芸や工芸の分野で新たに庶民文化が栄えた。

学問・思想

宋学

経典の字句の解釈ばかりにとらわれた漢代〜唐(王朝)の訓詁くんこ学を否定し、宇宙を貫く哲理や人間の本質について深い思弁をめぐらし、同時に知の実践を重んじる宋学という新しい儒教思想が誕生し、開花した。北宋の周敦頤しゅうとんいは、『太極図説』を著し、宇宙の原理から道徳の根本理念を解き明かし、宋学の祖となった。宋学は弟子の程顥ていこう程頤ていい兄弟に受け継がれ、やがて南宋の朱熹しゅきによって集大成され、宋学の最高峰として朱子学と称される。
朱熹は、万物の根源を宇宙万物を貫く原理たる「理」と物質を成り立たせている根本元素たる「気」に求め(理気二元論)、宇宙の「理」が人間に宿ったものである「本然の性」(理性)こそが人間のあるべき本質であるとした。(性即理)そして欲望や感情を抑えて「本然の性」を十全に発現させるための修養を説き、宇宙の万物に内在している「理」をひとつひとつ極めていくことを修養の本質として提示した(格物致知かくぶつちち)。また漢代以来、儒学の経典として尊重されてきた五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)よりも、『大学』『中庸』『論語』『孟子』を高く評価し、これに注釈をほどこして四書と称した。

こうした朱子学は、元(王朝)明(王朝)から清(王朝)の初期に至るまで儒学の正統とされ、さらに朝鮮王朝や日本の江戸幕府でも官学として尊重された。

朱熹が学問や知識を重視して客観的な概念論を説いたのに対し、同時代の陸九淵りくきゅうえん陸象山りくしょうざん)は、人間の心性を重視し、心の中にこそ理は内在すると説き(心即理)、認識と実践の統一をはかる主観的な唯心論を説いた。この説は、のちに明の王陽明おうようめいによって陽明学として発展させられた。

朱子学

朱子学は元代に科挙の科目となったことから、官学としてさかんになった。やがて清代になると、朱子学にかわって文献を重視する実証的な考証学が栄えた。

朱熹

朱熹しゅきの活躍した当時の中国は、華北の大部分を金朝に奪われてしまい、艱難かんなんに直面した時代であった。朱熹の生誕地は福建省のほぼ中央で、その誕生は南宋の初めである。陸九淵りくきゅうえん陸象山りくしょうざん)の生家が薬種商兼農業の大家族で郷里に土着していたのに対し、朱熹の生家は官僚の小家族で、郷里を離れて転々と移住した。若年のとき禅に傾倒し、19歳で科挙に合格するが、このときも禅理によって経典を説いたと告白している。科挙によって進士となったが、官途を避け、師を求めて学問を続け、読書にいそしんだ。しばしば推薦されて官位につくように勧められたが、これを辞し、また官位についても長続きしなかった。

中華思想

中国では、古くから周辺の異民族に対し、中華思想と呼ばれる文化的な優越感があった。これは漢族とそれ以外の異民族の区別を明確にし、漢族を華と称してその国土を中華・中国・中原と呼んで美化するとともに、異民族を文化程度の低い夷狄いてきと称して蔑視するもので、華夷思想とも呼ばれた。
周辺民族の圧迫を不断にこうむった宋代には、その裏返しとして中華思想が強烈に主張され、朱子学では、漢族の優位を強調する華夷の別が論じられた。朱子学ではまた君臣官の道義を至上の道徳とする大義名分論が唱えられた。

史学

宋学の影響をうけ、宋代の史学は大義名分論的道徳観・歴史観が顕著である。「嗚呼ああ」という慨嘆の語がしばしばはさまれることから「嗚呼史」と称される欧陽脩おうようしゅうの『新五代史』、『春秋』のあとをうけ戦国時代から五代末までの通史を編年体で叙述した司馬光の『資治通鑑しじつがん』はその代表である。なお朱熹はこれにもとづいて、大義名分の要目を明示した『資治通鑑綱目』を著している。

美術・工芸

北宋画

宋では宮廷に画院がいんがおかれて絵画が保護・奨励され、山水画や花鳥画が発達した。

画院翰林図画院かんりんとがいんの略で、勅令によって宮廷で絵画の制作をつかさどった。

徽宗きそうや宮廷画家を中心とする院体画は、多彩色で写実的な画風をもち、技巧の点でもすぐれ、伝統的な様式を重視した。こうした院体画の画風は北宗画(北画)とも称され、南宋では夏珪かけい馬遠ばえんなどの画家が現れた。

宋
馬遠『黄河逆流』©Public Domain

南宋画

また士大夫階級などの知識人たちによる文人画は、形式にとらわれることなく単色で細く柔軟な線を特色とし、その画風から南宋画(南画)とも呼ばれた。北宋の李公麟りこうりん米芾べいふつ、南宋の牧谿もっけいなどの画家を輩出した南宋画は、明代に全盛となった。

宋
牧谿『漁村夕照図』©Public Domain

陶磁器

陶磁器では、青磁・白磁のような単色で簡素ではあるが、内面的な色彩美を追求しようとする宋磁が発達し、その製陶技術は高麗時代の朝鮮や江戸時代の日本、さらにはベトナムやタイにも影響を与えた。

青磁:起源は殷周時代の灰釉陶かいゆうとうであるといわれている。
文学

散文

宋代では散文が盛んになり、形式にとらわれない自由な文章が流行し、多くの名文家が現れた。形式美をきわめた四六駢儷体しろくべんれいたいは、ひきつづき唐代にも流行したが、欧陽脩おうようしゅうは唐代の韓愈かんゆ柳宗元りゅうそうげんを受け継いで簡素で力強い漢以前の古文の復興を唱えた。唐代の韓愈・柳宗元と宋代の欧陽脩・王安石おうあんせき蘇洵そじゅん蘇軾そしょく蘇轍そてつ曾鞏そうきょうをまとめて「唐宋八大家」と呼ぶ。蘇軾は宋代最大の文豪として知られる。

韻文

韻文では、歌曲の歌詞が独自のジャンルとして発展したが唐末以降流行した。これらは唐詞に対して宋詞と呼ばれ、しだいに芸術性を高めて、北宋の柳永りゅうえい・南宋の陸游りくゆうらの名手が排出した。蘇軾もまた詞の名手である。

演劇

また雑劇とよばれる簡単な筋書きの演劇も庶民の間に流行し、北宋の滅亡後は金朝の院本、元の元曲(北曲)にうけつがれて発展した。

宗教

仏教

唐代に栄えた仏教は、やがて中国化し、宋代には実践的な禅宗浄土宗が中国仏教の主流となった。
禅宗は、坐禅によって自力で悟りを開こうとする宗派で、士大夫階級に支持され、宋学にも影響を与えた。禅宗の諸派のうちもっとも栄えたのが臨済宗りんざいしゅうであり、曹洞宗そうとうしゅうは、坐禅を重んじて多くの士大夫階級の参禅をみた。どちらものちの鎌倉時代の日本に伝来した。
浄土宗は、念仏を唱えて阿弥陀佛にすがれば極楽往生できると説く宗派で、士大夫階級から庶民まで広く信徒をえて、念仏結社が各地に作られた。一般的に、宋代の仏教には他宗兼修がみられ、禅浄一致などが唱えられた。

道教

歴代の王朝の保護をうけて繁栄してきた道教は、次第に迷信的要素が色濃くなり、腐敗も進んできた。金代にはこうした道教に改革運動がおこり、厳しい修行生活を唱える実践的な全真教が王重陽おうじゅうようによって開かれた。その弟子、長春真人ちょうしゅんしんじんが教主になると、全真教はいっそう発展し、江南を基礎とする正一教しょういつきょうと道教会を二分することになった。

正一教しょういつきょう:五斗米道の流れをくむ天師道てんしどう派の道教の教壇で、創立者張陵の子孫が天師を世襲した。

なお、長春真人はのちにチンギス=ハンの招きを受け、西征途上のチンギス=ハンとはるばるヒンドゥークシュ山脈の南で会見している。『長春真人西遊記』はその大旅行の記録である。

科学技術

印刷技術

木版印刷術は、隋または唐初に始まり、おもに仏典や辞書・暦書が印刷された。やがて五代から宋初にかけては儒教の経典も印刷され、宋の文治政策や科挙の励行を背景に、木版印刷術は広く普及した。
また、北宋の『夢渓筆談むけいひつだん』(沈括)によれば、11世紀なかばには活版印刷膠泥こうでい文字)も発明されたというが、実用化にはいたらなかった。

火薬

火薬は、唐代に発明されていたが、宋代になると改良が加えられ、その製法は11世紀半ばの『武経総要ぶけいそうよう』(曾公亮そうこうりょうら編)にくわしく記されている。
火薬が武器として実践的に使用されたのは、12世紀後半、南下する金軍に南宋が用いたのが最初であるといわれ、13世紀にはイスラーム世界を経由してヨーロッパに伝わった。

磁石

磁石の指北性については古くから知られていたが、『夢渓筆談』には偏角(磁針の指す北と地理上の真北の間にあるわずかなズレ)のことまでが指摘されている。磁石が羅針盤として航海に利用されたのは、北宋末の11世紀末から12世紀にかけてのことで、やはりイスラーム世界を経由してヨーロッパに伝わり、14世紀イタリアでより精巧な羅針盤に改良された。

こうして宋代の科学技術、とくに火薬・羅針盤はルネサンス時代のヨーロッパで改良が加えられて実用化が進み、大航海時代以降のヨーロッパ世界の拡大に絶大な役割を果たした。

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