山内豊信
山内豊信(国立国会図書館蔵/近代日本人の肖像

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山内豊信 やまうちとよしげ (容堂ようどう A.D.1827〜A.D.1872)

土佐藩主。容堂は号。安政の大獄蟄居ちっきょを命じられたが、のち幕政に参画。1867年、後藤象二郎の意見で将軍慶喜に大政奉還を建議した。

山内豊信

土佐藩主。容堂は号。安政の大獄で蟄居ちっきょを命じられたが、のち幕政に参画。1867年、後藤象二郎の意見で将軍慶喜に大政奉還を建議した。

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公武融和に尽くした、軽妙酒脱な土佐藩主

思いがけない藩主就任 大政奉還成立の立役者

山内豊信やまうちとよしげ容堂ようどう)は藩主となると門閥支配を嫌い、革新派の吉田東洋らを起用して藩政改革を断行する。公武合体派として幕政の改革にも乗り出し、土佐勤王党を解党させて藩内における尊攘過激派の鎮静化に努めた。豊信は藩参政。後藤象二郎から、幕府が朝廷に政権を返上するという坂本龍馬の「船中八策せんちゅうはっさく」案を進言される。薩長に倒幕の名目を失わせるうえ、新政府内での徳川家の影響力が温存できる妙案と考えた豊信は、この案を第15代将軍慶喜に建白。こうして1867年(慶応3)10月14日、大政奉還が実現したのだった。しかし、大政奉還をもってしても倒幕の流れは止まらなかった。王政復古の大号令後に各藩代表らが集まった小御所会議で、容堂は徳川家中心の列侯会議による新政府を強く主張する。しかし会議の後半は倒幕強硬派が支配し、慶喜の将軍職剥奪、幕府領の返上などが決定された。戊辰戦争を経て明治新政府が成立すると、議定、内国事務総裁などの要職についたが、官職が合わず1869年(明治2)に辞任。隠居後は数多くの妾女を囲い、連日酒楼で豪遊するという放蕩三味を尽くした。当時の志士たちから「酔えば勤王、醒めれば佐幕」と椰楡された彼の態度は、朝廷への尊崇と幕府への忠誠が同じ重さで存在したことの表れといえるのかもしれない。

容堂のサイン:勝海舟が坂本龍馬の土佐脱藩の赦免を頼んだところ、容堂は「歳酔三百六十回、鯨海酔候げかいすいこう」と署名して承諾した。「年中酔っている、土佐湾の酔っ払いの殿様」という意味だという。

近代国家の成立

開国と幕末の動乱

政局の転換

ハリスから通商条約の調印を迫られていたころ、幕府では13代将軍家定(1824〜58)に子がなかったため、その後継を誰にするのかという将軍継嗣問題が大きな争点となっていた。越前藩主松平慶永・薩摩藩主島津斉彬・土佐藩主山内豊信雄藩の藩主は、「年長・英明」な将軍の擁立をかかげて徳川斉昭の子で一橋家の徳川慶喜(1837〜1913)を推し、譜代大名らは幼年ではあるが血統の近い紀伊藩主徳川慶福(のち徳川家茂、1846〜66)を推して対立した。

将軍継嗣問題
将軍継嗣問題 ©世界の歴史まっぷ

慶喜を推す一橋派は、雄藩の幕政への関与を強めて幕府と雄藩が協力して難局にあたろうとし、慶福を推す南紀派は、幕府の専制政治を維持しようとし、朝廷も巻き込んで激しく争った。結局通商条約をめぐる朝廷と幕府の対立、将軍継嗣問題をめぐる大名間の対立という難局に対処するため、南紀派の彦根藩主井伊直弼が大老に就任し、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印するとともに、一橋派を押し切って慶福を将軍の継嗣に定めた。

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山内豊信が登場する作品

柳ジョージ&レイニーウッドの「酔って候」(鯨海酔候げかいすいこう

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