山西商人 江南を中心に手工業が発展した明代の中期以降、商品取引に活躍した遠隔地商人のなかでとくに中心的存在であった山西省出身の商人をさす。塩の販売権を明の政府から保証された特権商人であり、官僚と結んで政府の事業をおこない、華北を中心に巨大な富をきずいた。華中・華南を活動の中心とする徽州商人と全国の市場をほぼ2分した。
山西商人
アジア諸地域の繁栄
東アジア・東南アジア世界の動向
明後期の社会と文化
綿織物や絹織物が普及したので、その原料となる綿花と養蚕に必要な桑の栽培が必要となった。このため、水稲栽培をやめて、綿花や桑の栽培にきりかえるところが増加した。こうして明初以来、稲作の中心地であった長江下流域の江南デルタでは、しだいに水田が減った。また都市には、手工業の発展にともなって多量の非農民人口が流入したことから、江南の食料は他の地域に頼らざるをえなくなった。こうしたことから16世紀初めには、湖広(現在の湖南省・湖北省)を中心とした長江中流域が新たな穀倉地帯として重要な位置を占めることになり、ついには「湖広熱すれば天下足る」とまでいわれるようになった。
このように明の中期以降、江南を中心に手工業が発展し商品は商人によって全国各地に運ばれたが、商品取引に活躍した遠隔地商人のなかで、とくに中心的存在であったのが山西省出身の山西商人と安徽省出身の徽州商人(新安商人)であった。彼らは塩の販売権を明の政府から保証された特権商人であり、官僚と結んで政府の事業をおこない巨大な富をきずいた。その結果、華北を活動の中心とする山西商人と、華中・華南を中心とする徽州商人が全国の市場をほぼ2分する勢力となった。

王直
安徽省徽州県出身の王直は、はじめ塩商であったが、事業に失敗すると、1540年に仲間とともに日本や南海方面を相手に密貿易をおこない巨額な富をきずいた。1543年に種子島にポルトガル人を乗せた中国船が漂着し、日本に鉄砲を伝えたが、そのとき日本側と筆談をしたのが王直であったという。しかし彼が根拠地としていた舟山列島が、倭寇の取り締まりで攻撃をうけると、部下を率いて江蘇こうそ・浙江せっこう地域の沿岸部を襲い、後期倭寇の中心的な人物となったが、彼の死後、倭寇の勢力はしだいに衰えていった。
参考
詳説世界史研究