崇徳天皇
崇徳上皇像(『天子摂関御影』)©Public Domain

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崇徳天皇(上皇)( A.D.1103〜A.D.1156)

在位1123年3月18日 - 1142年1月5日。後白河天皇の兄にあたる。父鳥羽法皇の長期にわたる院政のため、実権を握れず不満を募らせた。法皇の死を契機とした保元の乱に敗北し、讃岐に配流された。

崇徳天皇

在位1123年3月18日 - 1142年1月5日。後白河天皇の兄にあたる。父鳥羽法皇の長期にわたる院政のため、実権を握れず不満を募らせた。法皇の死を契機とした保元の乱に敗北し、讃岐に配流された。

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院政期系図 延久の荘園整理令と荘園公領制
院政期系図 ©世界の歴史まっぷ

院政期系図 | 歴史まっぷDL

中世社会の成立

院政と平氏の台頭

保元の乱・平治の乱

武家の棟梁としての源氏は、東国に勢力を広げつつも、源義家の後の源義親みなもとのよしちかが流された出雲で反乱をおこし(源義親の乱 1107〜1108)、追討されるなどしてやや勢いを失うことになった。これにかわって院と結んで目覚ましい発展ぶりを示したのが、伊勢・伊賀を地盤とする桓武平氏の一族である。

承平・天慶の乱 源平の進出年表
源平の進出年表 ©世界の歴史まっぷ

源氏と平氏 | 歴史まっぷDL

なかでも平正盛たいらのまさもりは、伊賀国の荘園白河上皇に寄進して政界進出の基盤を築き、源義親を討って名をあげ、受領や検非違使けびいしとなって伊勢平氏の地位を高めた。正盛の子平忠盛たいらのただもりは瀬戸内海の海賊平定などで鳥羽上皇の信任を得、受領として千一体の千手観音像を安置する得長寿院とくちょうじゅいんを造営したことで、殿上てんじょうに昇ることが許され(殿上人)、武家という貴族の身分を獲得し、院近臣としても重く用いられるようになった。その平氏の勢力をさらに飛躍的に伸ばしたのが、忠盛の子平清盛たいらのきよもりである。

平氏のめざましい出世に対して、源氏も巻き返しをはかり、義親の子で義家の養子となった源為義みなもとのためよしは摂関家と結びつき、さらに為義の子の源義朝みなもとのよしともは東国に下って鎌倉を根拠地にし、広く関東の武士との主従関係を築きあげていった。

鳥羽法皇はこうした源平の武士を組織し、さらに諸国の荘園を集積したことで、専制的な権力を築いたが、それだけにその後の権力の掌握を求める争いが激化した。
1156(保元元)年、鳥羽法皇が死去するとまもなく、兼ねて皇位継承をめぐり法皇と対立していた崇徳上皇が朝廷の実権を握ろうと動いた。上皇は摂関家の継承を目指して兄の藤原忠道ふじわらのただみちと争っていた左大臣藤原頼長ふじわらのよりながらと結び、さらに源為義みなもとのためよし平忠正たいらのただまさらの武士を集めた。

保元・平治の乱関係図
保元・平治の乱関係図 ©世界の歴史まっぷ

これに対して、鳥羽法皇の立場を引き継いで朝廷の実権を握った後白河天皇は、近臣の藤原通憲ふじわらのみちのり信西しんぜい)を参謀にして、平清盛や源義朝らの武士を動員し、先制攻撃を仕掛けて上皇方を破った。その結果、崇徳上皇は讃岐さぬきに流され、頼長や為義らは殺された。これを保元の乱ほうげんのらんという。これまで京都を舞台にした合戦がなかったことから、この乱は貴族に衝撃を与え、また武士が政争に使われたことで、時代の大きな転換を人々に印象付けることになった。のちに延暦寺の天台座主てんだいざすとなった摂関家出身の僧慈円じえんは、その著『愚管抄ぐかんしょう』でこれ以後『武者むさの世』になったと記している。

乱ののち、政治の主導権を握った藤原通憲ふじわらのみちのりは、平清盛の武力を背景にして、保元の新制ほうげんのしんせいを出して、新たな基準を設けて荘園整理や悪僧・神人じにんの乱暴の取り締まりを行うなど、鳥羽院政の時代におこった社会の変動に対処した新たな政治を始めた。

保元の乱・平治の乱 – 世界の歴史まっぷ

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