巨文島事件
清国は当初、ロシアへの対抗策として、および朝鮮に対する自国の優先権を国際的に確認するために、イギリスによる巨文島占拠をある程度は認めるつもりだった。しかし、朝鮮問題に発言力を持つ李鴻章の強い反対により態度を変え、イギリスに退去を求めるとともに、朝鮮政府の支援に転じた。 朝鮮政府は現地調査のために、政府有司堂上・厳世永と外務協辦(外交顧問)を務めていたメレンドルフを派遣し、巨文島のイギリス海軍の指揮官や長崎に滞在していたイギリス東洋艦隊司令官と交渉を行ったが、決定的な対応を得ることはできなかった。 このようにイギリスは、巨文島を「第2の香港」とするべく既成事実化を進めたが、各国の反対は強硬だった。 ロシア公使ヴェーバーは、ロシアがイギリスに対抗して朝鮮の適当な土地を占領することを公言し、積極的な反対運動を行った。 アフガニスタンにおけるロシアの脅威が縮小した後、イギリスと清国の間で交渉が行われ、最終的にイギリス艦隊は巨文島の基地を放棄することを決めた。 イギリス人は1887年2月27日に基地を破壊して立ち去ったが、その後も彼らは島を訪問し続けた。若い水兵をそこに埋葬することもあった。 島々が日本の統治に入った1910年以後、訪問は頻繁ではなくなった。巨文島の位置
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明成皇后
