弘文天皇
弘文天皇御影 (『図説大津の歴史 上巻』) ©Public Domain

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弘文天皇 (大友皇子おおとものみこ) A.D.648〜A.D.672

弘文天皇こうぶんてんのうは、第39代天皇(在位672年1月9日 - 672年8月21日)。天智天皇の第一皇子。母は伊賀采女宅子娘いがのうねめ。天智天皇崩御後、後継者として統治したが、地方豪族を母にもつ大友皇子は即位できない立場にあり、天智天皇の弟大海人皇子がおこした壬申の乱に破れ自害した。
1870(明治3)年に諡号を贈られ天皇として認められたが、『日本書紀』には記載がなく、即位したかどうか定かでない。

弘文天皇

律令国家の形成

律令国家の成立

律令国家の形成

天智天皇が671(天智天皇10)年に死去すると、翌672年に、壬申の乱がおこった。
これは、天智天皇の同母弟で大王位継承者とされていた大海人皇子おおあまのみこと、天智天皇の長子(母は伊賀地方豪族出身)で、671年に政権に参画した大友皇子おおとものみことの間におこった大王位継承争いを発端としている。

671(天智天皇10)年正月に太政大臣だいじょうだいじんに任じられたとされる大友皇子おおとものみこは、10月に大海人皇子おおあまのみこが出家し、12月に天智天皇が死去した後は、近江朝廷の中心に立った。
江戸時代の学者は皇子の即位を主張し、1870(明治3)年、皇子は弘文天皇こうぶんてんのう追謚ついしされた。
しかし、実質的に朝廷の主であった皇子の即位そのものにこだわる必要はない。また、地方豪族を母にもつ大友皇子は、もともと即位できない立場にあった。
大海人皇子が大友皇子を倒した原因については、大海人皇子の後継者問題や鵜野皇女(のちの持統天皇)の意向もからんで、複雑な要因が存在したのである。
吉野に退いていた大海人皇子は、東国に脱出し、伊賀・伊勢を経て美濃を本拠とし、東国で徴発された数万の兵と、大伴氏を中心とする大和の諸豪族の兵を配下に収めた。大海人軍は飛鳥京を平定するとともに、大津宮を目指して近江路を進軍した。
一方、大友皇子は、西国の兵を徴発しようとしたが、白村江の戦いの動員で疲弊し、近江朝廷への不満を強めていた西国の地方豪族からの動員は思うようには進まず、ついに近江大津宮は陥落し、大友皇子は自殺して乱は決着した。大海人皇子は、683年に飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみやで即位した(天武天皇てんむてんのう)。
それまで「大王おおきみ」とされていた君主号にかわるものとして、「天皇」号が制定されたのも、天武朝出会ったと考えられる。中国の「皇帝」と対置し、中国皇帝の冊封さくほうを受けた新羅の「国王」よりも優位に立つ、「東夷の小帝国」の君主として、自らを位置付けようとしたのである。
壬申の乱 律令国家の形成 672年壬申の乱要図 律令国家の形成
672年壬申の乱要図 ©世界の歴史まっぷ

672年壬申の乱要図 – 世界の歴史まっぷDL

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天皇系図 第26代〜第45代

弘文天皇
天皇家系図(第26代〜第45代)©世界の歴史まっぷ

弘文天皇が登場する作品

いずれもマンガで、創作された部分はあるが、大まかな流れや飛鳥時代の動き、東アジアの情勢などを知ることで、歴史に興味を持つきっかけになると思う。登場人物が多いので、巻頭にある系図と照らし合わせ、登場人物の立場を把握しながら全巻一気に読んでほしい。

天上の虹 「持統天皇物語」

持統天皇の目線から描いた飛鳥時代

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天智と天武 「新説・日本書紀」

天智天皇と天武天皇を中心に、蘇我入鹿藤原鎌足を日本書紀とは別の目線で描いた男の世界。

同時代の人物

アリー(正統カリフ)(600頃〜661)

第4代正統カリフ。イスラーム教シーア派初代イマーム。預言者ムハンマドの従兄弟で義理の息子。第3代ウスマーン(正統カリフ)暗殺はアリー派人物だったため、ウマイヤ家の攻撃を受ける。和睦に持ちこんだが、それを不満に思う一派に暗殺された。ウマイヤ朝の成立後、アリー(正統カリフ)とその子孫に共同体を指導する権利があると主張する人々は、シーア派(分派)を結成した。

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