大月氏へと赴く張騫使節団
張騫の西征(莫高窟壁画)©Public Domain

張騫


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張騫 ( B.C.164〜B.C.114)

張騫ちょうけんは、当時漢に敵対する匈奴を挟み撃ちにするための同盟を結ぶことを目的として、前漢武帝(漢)の命を受けて、紀元前139年頃から紀元前126年頃にかけて大月氏国へ赴いた。途中匈奴に捕らえられ、10年近くを匈奴で過ごしたが、抜け出して大宛(フェルガナ)康居こうきょをへて大月氏国にたどり着いた。同盟は結ばれなかったが、帰国後、彼の西域の情報が知られるようになり、また中央アジアにおいても、中国の使者がもたらした絹などの品々を珍重した。ここに、後世シルク・ロードと呼ばれる交易路ができあがることとなった。

張騫

西域経営の開拓者

前漢の役人。武帝(漢)の下で郎を務め、匈奴を挟撃すべく、大月氏国への使者が募集された際、これに応じた。匈奴に2度も捕らえられながら、13年の歳月をかけて帰国を果たす。張騫が西域諸国の最新情報をもたらしたことで、前漢による西域進出が本格化した。

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アジア・アメリカの古代文明

中国の古代文明

武帝の政治

武帝は即位後まもなく(紀元前139頃)張騫ちょうけんを西方の大月氏のもとに派遣し、匈奴を挟み撃ちにする約束をとりつけようとはかった。結局のところ、大月氏側にその意志がなかったため、その目的は果たせなかったが、これを契機に西域の事情が知られるようになった。

そののち武帝は張騫を烏孫うそんに使者として派遣したり、服属を拒否した大宛だいえん(フェルガナ)に遠征したりして、タリム盆地の諸都市にまで支配を広げた。

西域とは、中国人が西方一帯をさしていう呼称。範囲は時代によって異なる。漢は、西域36カ国といい、タリム盆地周辺のオアシス都市国家をまとめてこのように称した。
前漢の最大領域と張騫の行路地図
前漢の最大領域と張騫の行路地図 ©世界の歴史まっぷ
大宛遠征と汗血馬

張騫の報告した西方のめずらしい産物のうちで、武帝(漢)が特に注目したのは大宛(フェルガナ)の汗血馬かんけつばであった。漢では天馬てんばといわれ、1日に千里走り、血の汗を流したといわれる。李広利りこうりの大宛遠征では、3000頭の名馬を連れて帰った。大宛は、東西交通の要衡にあたるため、これ以前にもアケメネス朝ペルシアや、それに続くアレクサンドロス3世の征服を受けている。

諸地域世界の交流

陸と海のネットワーク

オアシスの道(オアシス・ルート)
東西交流の三つの道地図
東西交流の三つの道地図 ©世界の歴史まっぷ

東方では、紀元前2世紀後半の張騫の派遣に始まる前漢 武帝(漢)の西域進出、1世紀末、後漢班超による西域経営、7世紀から8世紀前半における唐の西域経営など、中国の政権が安定すると、常にこと地域への進出が試みられた。イラン系のソグド商人に代表される隊商民は、オアシスの道を東西に移動し、また各オアシス都市は中継貿易によって利潤をあげた。

東西文物の交流

大旅行家の行程地図
大旅行家の行程地図 ©世界の歴史まっぷ
人物の往来

東西を往来した人々をみると、あるものは国の使者として、またあるものは商人として、またあるものは宗教者として、その目的は多様であった。しかし、いずれも東西の文化や事情を伝え、新しい時代の先駆けとなった点で、極めて重要な役割を果たしている。

張騫

シルク・ロードの交通に、大きな役割を果たしたのが張騫(?〜紀元前114)の西域旅行である。張騫は、紀元前139年頃から紀元前126年頃にかけて前漢武帝(漢)の命を受けて大月氏国へ赴いた。当時漢に敵対する匈奴を挟み撃ちにするための同盟を結ぶことが目的であった。彼は途中匈奴に捕らえられ、10年近くを匈奴で過ごしたが、抜け出して大宛(フェルガナ)、康居こうきょをへて大月氏国にたどり着いた。しかしアム川の上流に安定した国家を営んでいた大月氏国では、武帝(漢)の同盟策は受け入れられなかった。こうして張騫は帰国したが、帰国後、彼のもたらした西域の情報は、中国人にとって極めて魅力的であった。名馬として知られ、1日に千里走ると言われた大宛の汗血馬かんけつばや于闐(コータン)のぎょくは、極めて魅力的な品であった。また中央アジアにおいても、中国の使者がもたらした絹などの品々を珍重した。ここに、後世シルク・ロードと呼ばれる交易路が出来上がるのである。

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年表

  • 漢は、匈奴(きょうど)挟撃(きょうげき)の交渉のため、張騫を筆頭に筆頭に100人余りの使節団を大月氏へ送る。
  • 張騫は匈奴に捕らわれ、10余年幽閉される。
  • 張騫は脱出に成功すると大宛(たいえん)に寄り、この地の王に歓迎される。
  • 大月氏は匈奴に追われて北に逃げた後に、烏孫(うそん)に追われて更に西へと逃げていた。
  • 張騫は康居(こうきょ)へ立ち寄った後、大月氏の町へとたどり着く。
  • 月氏が逃げてきた大月氏の地は物産が豊かで周りに強敵もおらず、月氏は大夏を服属させ、中継貿易で大いに栄えており、匈奴への復讐心はもはや過去の物となっていたため、張騫の同盟を受け入れなかった。
  • 張騫は帰り道に崑崙(こんろん)山脈を行き、チベット系民族である羌(きょう)族の支配地を通ることを選んだが、またしても匈奴に囚われる。
  • 1年余りで軍臣単于(ぐんしんぜんう)が死去し、張騫は匈奴が内部対立を起こした隙を突いて脱出する。
  • 紀元前126年に漢へ帰還する。(漢に辿り着いた使節団は2名だった。)
  • 大月氏との同盟は失敗したが、張騫が持ち帰った西域の知識は極めて貴重なものであり、それまで漢にとって全く状況が解らなかった西域が、以降は漢の対匈奴戦略の視野に入ってくることになる。この功績により張騫は太中大夫とされる。
  • 紀元前123年、武帝は大将軍衛青(えいせい)率いる匈奴(きょうど)への遠征軍を出発させる。この中で張騫は自らの地理知識を活かして大きく貢献し、衛尉・博望侯とされる。
  • 紀元前121年の遠征の際に、期日に遅れた罪で死罪となる所を金銭で贖って庶民に落とされる。
  • 紀元前119年に烏孫(うそん)と同盟することを考え、使者として赴いた。
  • 紀元前114年、死去。
  • 張騫の死後、張騫の打った策が徐々に実を結び始め、西域諸国は漢へ交易に訪れるようになり、漢は匈奴に対して有利な立場を築くようになる。
  • 張騫の孫の張猛(ちょうもう)は匈奴の呼韓邪単于(こかんやぜんう)と盟を結び、また一時期元帝に信任された。
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