後三年合戦 (
A.D.1083〜A.D.1087)
清原氏の相続争いに、陸奥守として赴任した源義家が介入。藤原清衡をたすけて清原氏を金沢柵で滅ぼす。源氏の信望が東国で高まり、武家の棟梁の地位を確立した。これを描いたのが「後三年合戦絵巻」。
後三年合戦
清原氏の相続争いに、陸奥守として赴任した源義家が介入。藤原清衡をたすけて清原氏を金沢柵で滅ぼす。源氏の信望が東国で高まり、武家の棟梁の地位を確立した。これを描いたのが「後三年合戦絵巻」。
貴族政治と国風文化
荘園と武士
源氏の進出
前九年合戦の後に安倍氏にかわって陸奥・出羽両国で大きな勢力を得た清原氏一族に内紛がおこった。清原家真衡(?〜1083)が弟の清原家衡(?〜1087)と争い、真衡の死後は家衡がが母の連れ子の清原清衡(1056〜1128)と争っていた。
そこに陸奥守であった源義家が介入し、藤原清衡を助けて清原家衡と戦い、苦戦の末に内紛を平定したのである。源義家の介入は私合戦とみなされ、朝廷から恩賞は与えられなかったが、これらの戦いを通じて源氏は東国武士団との主従関係を強め、武士の棟梁としての地位を固めた。
東国武士団のなかには義家に土地を寄進して保護を求めるものが増えたため、政府が慌ててこれを禁止したほどである。このころには地方武士が大名田堵の経営を継承しつつ、開発領主として成長して私領の拡大や保護を求めており、その傾向をとらえた義家が、彼らを家人として組織していったのである。
東国武士団
源義家が京都に帰ってのち、東国の武士団の多くは家をおこし、開発所領を形成するようになった。後三年合戦で矢を目に射られたにもかかわらず突進した鎌倉権五郎景政は、相模の大庭御厨を伊勢神宮に寄進しており、同じ相模の三浦氏は相模国の在庁官人となって三浦半島一帯に大きな勢力を築いた。彼らの子孫はその後、都から下ってきた源氏の棟梁である源義朝に従い、さらに義朝に従って鎌倉幕府の形成にかかわっている。
戦争データ
年月日: A.D.1083〜A.D.1087 | |
場所:奥羽地方 | |
結果:源氏側の勝利 | |
交戦勢力 | |
源氏 | 清原氏 |
指導者 | |
源義家 藤原清衡 |
清原家衡 清原武衡 |
参考 Wikipedia