新と後漢 後漢 秦・漢帝国と世界 漢(王朝) ローマ帝国へ 匈奴 2世紀の世界地図
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後漢(東漢) A.D.25〜A.D.220

劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再建した王朝。都は洛陽。五代の後漢と区別するため東漢ともいう。豪族の連合政権として当初は安定していたが、2世紀には実権を握った豪族や宦官、官僚が内紛を起こし、幼少の皇帝が続くなど政治的な混乱が深まった。220年、献帝曹丕に禅譲し後漢は滅亡。

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劉秀が再建した漢王朝。東漢ともいう。都は洛陽。豪族の連合政権として当初は安定していたが、2世紀には実権を握った豪族や宦官、官僚が内紛を起こし、幼少の皇帝が続くなど政治的な混乱が深まった。220年、献帝が魏王曹丕に禅譲し後漢は滅亡した。

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新と後漢

新(中国)(8〜23)をたてた王莽おうもうは、周の政治を理想として『周礼しゅうらい』などの儒教の経典に基づいて政治をおこない、官制や貨幣制度を改め、全国の土地を国有にし、奴隷の売買を禁じ、また商工業を統制した。その極端な復古主義の政策は社会の実情に合わず、農民や豪族の反抗を招いた。対外的にも、匈奴や西域諸国、高句麗などが離反した。
こうした政治の混乱のなかで農民の反乱(赤眉の乱せきびのらん 18〜27)がおこり、それに乗じた地方豪族の反乱もおこって、都の長安は陥落し、王莽は殺されて新はわずか15年で滅亡した(23)。

赤眉の乱:反乱をおこした農民たちが、王莽の軍隊と識別するために眉毛を赤く染めたことから、この呼び名がある。

新の滅亡後も群雄の争いは続いたが、やがて漢の一族である劉秀りゅうしゅう光武帝(漢))は、豪族を率いて勢力を伸ばし、漢(後漢)を復興し、洛陽に都をおいた(25)。光武帝(漢)は赤眉の乱を鎮圧すると(27)、内政に力を注ぎ、前漢の諸制度を復活し、儒教的な秩序のもとに国内の平和を確立しようとする一方、対外的には消極策をとった。

秦・漢帝国と世界

光武帝(漢)以後数代にわたって国力の充実をはかった後漢は、やがて積極的な対外政策に転じ、匈奴の分裂に乗じて南匈奴を服従させ、北匈奴を北方に追い払って、西域の経営に力を注いだ。
さらに和帝(漢)のとき、西域都護に任命された班超はんちょう(91年に西域都護)は匈奴を討って西域経営に大いに力を入れ、1世紀の終わりにはカスピ海以東の50余りのオアシス都市国家が漢に服属するようになった。

西域都護:
前漢の宣帝(漢)のとき(紀元前59)、匈奴の投降を契機に西域統治の機関として亀茲きじに西域都護府をおいた。その長官が西域都護である。前漢末の内乱によって西域に対する統治は途絶え、西域諸国も漢から離反した。それを復活したのが班超である。

そして西方の事情の一部が中国に伝わり、ローマ帝国大秦だいしん)の存在も知られるようになった。また97年には、班超の部将の甘英かんえい大秦国に派遣し東西交渉の利益確保を目指したが、甘英は条支国じょうしこくにいたり断念して帰国した。その後、2世紀の中頃になると、海路、後漢の日南郡(ベトナム中部)に大秦国安敦あんとん(ローマ帝国第16代皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の使節と称するものがやってきた(166)。このように、後漢時代には、陸路および海路を利用する東西の交渉がさかんに行われるようになった。

大秦国安敦の使節:『後漢書』西域伝には、象牙など南海の産物を持ってやってきたとあって、ローマからの物産が記されていないことから、あるいはローマ皇帝からの本当の使節ではなく、インド方面もしくはローマ東方領の商人などが自称したのではないかともいわれている。

また、前漢以来、倭人は朝鮮におかれていた楽浪郡との間を往来していたが、後漢のはじめには、北九州にあった奴国なのくにの使者が洛陽に赴き、光武帝(漢)から印綬いんじゅ(「漢委奴国王印かんのわのなのこくおういん」)を与えられた(57)。

漢委奴国王印

1784年(江戸時代)、北九州の博多にある志賀島(福岡市)で、農民の甚兵衛が田の用水路をなおしていたとき、金印を発見した。甚兵衛は庄屋と相談して藩主の黒田家に届けでた。その印面には「漢委奴国王」と彫られており、光武帝によって奴国王に与えられたと『後漢書』に記されている印綬であると考えられている。

2世紀に入ると、後漢では幼帝が続き、外戚や宦官が政治の実権を握るようになった。これに反対する儒教の教養を身につけた官僚や学者は、宦官によって弾圧され(党錮の禁とうこのきん, 166・169)、国政は乱れた。また地方では豪族が勢力をふるって農民を圧迫した。重税と豪族の圧迫に苦しんだ農民は、各地でしばしば反乱をおこした。とりわけ184年に華北一帯に広がった大農民反乱である黄巾の乱を契機として、群雄割拠ぐんゆうかっきょの時代となり、後漢政府の支配力は完全に失われた。やがて後漢は、群雄のなかでもっとも有力であった曹操そうそうの子曹丕そうひによって滅ぼされた(220)。

黄巾の乱

後漢の中ごろからおこった外戚・宦官・豪族の勢力の増大および大土地所有者の進行などによって、農民の生活は窮乏し各地で農民反乱が続いた。そのなかで最大のものが、184年におきた黄巾の乱である。
これは、太平道という宗教結社を始めた張角ちょうかくが指導したもので、黄色の布を頭に巻いたことから「黄巾の賊」と呼ばれた。後漢の政府は、この反乱を容易に鎮圧できず、豪族の強力をえて同年末までに主力を撃破することができたが、これに呼応した反乱はこのあとも各地で相次いだ。こののち政府の命令は行き渡らず、群雄割拠の時代となった。

漢代の社会

春秋・戦国時代以来、徐々に発展してきた農業生産力が古い村落共同体を壊していき、漢代には標準100(約4.5ha)ほどの耕地をもつ農民家族100戸ほどからなる集落()が形成された。

漢代の農民は、5〜6人程度の家族で標準100畝の耕地を耕し、郡・県・郷・里制の末端である里に組織された。その100畝からの収穫は100石(約1800ℓ)にすぎず、ギリギリの生活を余儀なくされていた。
これらの農民の間での貧富の差は、はじめそれほど大きくなかったとみられている。また、里内の日常生活の秩序は、父老ふろうと呼ばれる信望のある有力者層によって維持されていた。しかし実際には重い税、徭役ようえきや飢饉のため土地を売って没落する農民も多く、一部のものに土地が集中する傾向を促した。
漢代の社会
漢代の社会変化 ©世界の歴史まっぷ

こうして豪族と呼ばれる地方の有力者が現れた。彼らは広い耕地を所有し、当時もっとも進んだ農法である牛耕を取り入れ、また奴隷や小作人を使って耕作させた。こうした傾向は紀元前1世紀ころから顕著なものとなり、重い租税や徭役・兵役の負担に苦しむ農民のなかには、土地を失い没落して彼らの奴隷となったり、あるいは小作人として彼らの支配下に入るようなものも現れた。
そこで前漢は、紀元前7年、哀帝(漢)あいていのとき大土地所有と奴隷の数を制限しようとして限田策げんでんさくを実施したが、効果は上がらなかった。さらに武帝(漢)以来郷挙里選きょうきょりせん(地方長官の推薦による官吏登用法)もおこなわれたため、地方で実力をもつ豪族は官僚となって権力を握った。
とりわけ後漢の政府は、漢代をつうじて農民の貧窮化・没落化の傾向は激しさを増し、多数の流民が発生するなど社会の矛盾は激しくなり、農民反乱(黄巾の乱など)を引き起こすことになった。

漢代の文化

漢代の文化

儒学儒教の国教化武帝(漢)時代、董仲舒の献策により五経博士を設置。国家の統治理念となる。
訓詁学の発達古書の復元、経典や字句の注釈に力を注ぎ、教義の理念的発展はなかった。馬融や鄭玄(後漢)によって大成。
歴史書『史記』(司馬遷全130巻、本紀・表・書・世家・列伝からなる紀伝体。伝説上の黄帝から武帝(漢)までの通史。その後の正史の模範となる。
『漢書』(班固)全120巻、紀伝体による前漢の正史。
宗教仏教の伝来前漢末(紀元前後)、西域より伝来。
太平道張角が指導。呪文や祈祷による病気を治療。黄巾の乱の主力。道鏡の源流となる。河北が中心。
五斗米道張遼・張が指導。祈祷による病気治療をおこない、謝礼に米を5斗はらう。道鏡の源流となる。四川が中心。
美術工芸製紙法後漢の宦官・蔡倫が改良。木簡や竹簡に代わり普及。のちにイスラーム圏を経てヨーロッパに伝播。
美術・工芸絹織物・漆器・銅鏡
学問『説文解字』許慎(後漢)が編纂。9353字の漢字を解説した最古の字書。
文字文字甲骨文字()→金石文(周)→篆書(秦)→隷書(前漢)→楷書(後漢末)
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