後漢(五代) 後漢は、中国五代十国時代の王朝(947年〜950年)で、五代のうちの一つの王朝である。建国者はテュルク系突厥沙陀族の劉知遠で、劉姓であることから国号を漢とした。都は開封にあった。 25年〜220年の後漢とは読みがなが違う。
後漢(五代)

歴史
建国前(後晋末)

建国
後晋の建国に際してその高祖の即位に功があり、侍衛親軍馬歩軍都指揮使で要所の節度使を兼ねていた劉知遠が、遼の南侵の激化に伴い河東節度使として晋陽に駐屯することとなった。 遼に対する防衛拠点の晋陽で劉知遠は後に後漢の親衛部隊の中核となる兵力を自らの力で増強した。 後晋が遼に滅ぼされ劉知遠は947年2月皇帝に即位して後晋に代わる後漢朝を開いた。 当時、強大な遼軍が開封を中心に華北を占領していて、これに対し華北各地で遼軍に対する反抗が激化していた。 これとあわせ遼の本国での太宗に対する不穏な動きがあったために遼軍が撤退し、開封への入城はその遼軍が引き上げた後の947年6月となった。 後漢高祖の開封入城にあたって、後晋及び遼の太宗の南侵時に任命された節度使以下の将吏に対しその地位が安堵された。このため後漢朝は成立当初から各地の有力藩鎮の反乱に悩まされることとなった。この反乱鎮圧に功を挙げたのが後の後周太祖郭威(当時宰相で枢密使でもあった)であった。2代皇帝と後漢の滅亡
即位後すぐの翌948年1月に後漢高祖劉知遠は死去し、18歳の隠帝劉承祐が後を継いだ。 950年4月に遼軍の南下に備えるため郭威は枢密使で天雄軍節度使となって鄴都へ赴任した。この機に乗じ、隠帝側近により有力な武臣の粛清が行なわれた。これに対し、郭威は直ちに行動を起こし開封へ入城して隠帝側近を殺した。この際に隠帝が殺された。 郭威は一旦は劉知遠の甥(後漢高祖の弟劉崇の子劉贇、当時徐州武寧軍節度使)を擁立したが、遼軍の南下に備えるために開封から東へ移動途次の澶州で部下から皇帝に推戴され、帝位に就き後周を開いた。 後周の建国により不要となった劉贇は徐州から開封へ向かう途中で殺害され、その父である劉崇は自身が河東節度使として駐屯する晋陽で後漢を継承したとして自立し、十国の一つ北漢を建てた。北漢は後周に代わった北宋に滅ぼされる979年5月まで続いた。歴代皇帝
- 高祖(劉知遠、在位947年 – 948年)
- 隠帝(劉承祐、在位948年 – 950年)
- 隠帝没後に郭威によって一時擁立された劉贇は、開封へ向かう途中の宋州で湘陰公に格下げされ、郭威の即位後間もなく殺害されたため後漢の正式な皇帝とされない。