後白河天皇
後白河法皇像(宮内庁蔵『天子摂関御影』) ©Public Domain

後白河天皇


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後白河ごしらかわ天皇(上皇・法皇) ( A.D.1127〜A.D.1192)
在位1155年8月23日 - 1158年9月5日 院政1158〜79, 81〜92。父は鳥羽天皇。保元の乱で兄崇徳上皇を配流し、二条天皇など5代にわたり院政を行う。当初は良好であった平氏との関係はしだいに悪化し、1179年には鳥羽殿に幽閉され、一時的に院政は停止された。清盛の死後に院政を再開。源氏の勢力を用いて平氏を打倒した。

後白河天皇

在位1155年8月23日 - 1158年9月5日 院政1158〜79, 81〜92。父は鳥羽天皇。保元の乱で兄崇徳上皇を配流し、二条天皇など5代にわたり院政を行う。当初は良好であった平氏との関係はしだいに悪化し、1179年には鳥羽殿に幽閉され、一時的に院政は停止された。清盛の死後に院政を再開。源氏の勢力を用いて平氏を打倒した。

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院政期系図 延久の荘園整理令と荘園公領制
院政期系図 ©世界の歴史まっぷ

平氏と幕府に対応し、院政を守り抜いた政治家

武士と交渉し続け朝廷政治を保つ

正仁親王まさひとしんのう後白河法皇ごしらかわほうおう)は、もともと皇子として期待されていたわけではなかった。若年の頃は今様いまよう(平安末期に流行った歌謡)に熱中し、これを見た父の鳥羽法皇とばほうおうは、「あれは天皇になる器ではない」と嘆いたという。

ところが弟の近衛天皇このえてんのうが17歳で死ぬと、兄崇徳上皇すとくじょうこうの皇子で16歳の重仁親王しげひとしんのうと29歳の雅仁が候補者となり、結局、雅仁が即位。後白河天皇の誕生となる。

さきに鳥羽法皇に退位させられ、さらにわが子の即位を阻まれた崇徳は激怒。鳥羽法皇の死後、後白河は崇徳を減ぼそうとし、兄と弟の争いは保元の乱という武力衝突へと発展した。戦いは後白河側が勝利、崇徳は識岐国に流された。

平治の乱で、源氏に勝った平氏が勢力を強めるにつれて、後白河と平清盛との対立がしだいに激化し、平氏追討計画が未然に露見した庇ヶ谷事件を経て、ついに清盛は法皇を鳥羽殿に幽閉し、院政をやめさせる。

平氏への反感が高まる中で、かつて高倉上皇との皇位争いに敗れた以仁王もちひとおうが、平氏追討の命令を出す。これに応じて、源頼朝みなもとのよりともをはじめ、諸国の武士が平氏討伐のために立ち上がる。

頼朝は弟の義経らを派遣し平氏を減ぼし、さらに奥州藤原氏を減ぼして全国を従える。その翌年、頼朝は上洛し、法皇と頼朝との対面によって、朝廷のもとで、頼朝が武士を率いて国家の守護にあたる朝廷・幕府の体制が確立する。

今様:11世紀ごろから流行しはじめた歌謡で、おもに鼓を伴奏として歌われた。後白河は、10歳から熱中し、声帯を破ること3度、湯水も通らぬ日もあったという。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで

中世社会の成立

院政と平氏の台頭

保元の乱・平治の乱
承平・天慶の乱 源平の進出年表
源平の進出年表 ©世界の歴史まっぷ

父・鳥羽法皇は源平の武士を組織し、さらに諸国の荘園を集積したことで、専制的な権力を築いたが、それだけにその後の権力の掌握を求める争いが激化した。

1156(保元元)年、鳥羽法皇が死去するとまもなく、兼ねて皇位継承をめぐり法皇と対立していた兄・崇徳上皇が朝廷の実権を握ろうと動いた。崇徳上皇は摂関家の継承を目指して兄の藤原忠道ふじわらのただみちと争っていた左大臣藤原頼長ふじわらのよりながらと結び、さらに源為義みなもとのためよし平忠正たいらのただまさらの武士を集めた。

保元の乱・平治の乱 保元・平治の乱関係図
保元・平治の乱関係図 ©世界の歴史まっぷ

これに対して、鳥羽法皇の立場を引き継いで朝廷の実権を握った後白河天皇は、近臣の藤原通憲ふじわらのみちのり信西しんぜい)を参謀にして、平清盛や源義朝らの武士を動員し、先制攻撃を仕掛けて上皇方を破った。その結果、崇徳上皇は讃岐さぬきに流され、頼長や為義らは殺された。これを保元の乱ほうげんのらんという。これまで京都を舞台にした合戦がなかったことから、この乱は貴族に衝撃を与え、また武士が政争に使われたことで、時代の大きな転換を人々に印象付けることになった。のちに延暦寺の天台座主てんだいざすとなった摂関家出身の僧慈円じえんは、その著『愚管抄ぐかんしょう』でこれ以後『武者むさの世』になったと記している。

乱ののち、政治の主導権を握った藤原通憲ふじわらのみちのりは、平清盛の武力を背景にして、保元の新制ほうげんのしんせいを出して、新たな基準を設けて荘園整理や悪僧・神人じにんの乱暴の取り締まりを行うなど、鳥羽院政の時代におこった社会の変動に対処した新たな政治を始めた。

保元の新制

律令格式の編纂ののちに朝廷から出される法令は、次第に「新制」と称されるようになった。荘園整理令もその一つであるが、多くは朝廷の内部の規律や服飾の統制を内容としている。しかし、保元の乱後に出された申請は、これまでになく大規模なもので、従来の整理基準を見直して、王土思想おうどしそうによりながら荘園整理を天皇の名のもとで行うこととし、白河・鳥羽の院庁下文いんちょうくだしぶみや宣旨で認められた荘園は公認すること、さらに大寺院や大寺社に所属する悪僧や神人の取り締まりを行うことなどを定め、さらに翌年にも、内裏を中心とした官人の規律や風俗の統制を命じており、その後の新制の基準とされた。

やがて院政を始めた後白河上皇の近臣間の対立が激しくなり、1159(平治へいじ元)年には、平清盛と結ぶ通憲に反感をもった近臣の一人藤原信頼ふじわらののぶよりが源義朝と結び、平清盛が熊野詣にきかけている留守をねらって兵をあげ、通憲を自殺させた。だが武力に勝る清盛は、京都の六波羅邸ろくはらていに帰還すると、藤原信頼らを滅ぼし、東国に逃れる途中の源義朝を討ち、その子の源頼朝を捕らえて伊豆に流した。これが平治の乱へいじのらんである。

この二つの乱を通じて、貴族社会内部の争いも武士の力で解決されることが明らかとなり、武家の棟梁としての平清盛の地位と権力は急速に高まった。

平氏政権

平治の乱後、平清盛は後白河上皇の信任を得て、法住寺ほうじゅうじ御所の近くに蓮華王院れんげおういんを造営し、その本堂(三十三間堂)には千一体の千手観音像を安置するとともに、宝蔵には古今東西の宝物を納めた。こうした上皇への奉仕と武力によって、清盛は異例の昇進をとげて太政大臣となり、その子平重盛たいらのしげもりらの一族もみな高位高官にのぼって勢威並ぶもののないありさまとなった。

平家はもっぱら従来の国家組織にのって、官職の独占によって支配をはかったために、そこから排除された旧勢力からの強い反感を受け、清盛の妻の姉妹で、後白河法皇の妃となっていた建春門院けんしゅんもんいんがなくなると、法皇や院近臣との対立が深まっていった。

そして117(治承じしょう元)年には、法皇の近臣藤原成親ふじわらのなりちか・西光・僧俊寛しゅんかんらが、京都郊外の鹿ケ谷ししがたにで平氏打倒のはかりごとをめぐらし、失敗する事件をおこしている(鹿ケ谷の陰謀)。

さらに1179(治承3)年になると、後白河法皇を中心に反平氏の動きが表面化したことから、清盛はついに法皇を幽閉し、関白以下多数の貴族の官職を奪い、処罰するという強圧的手段に訴えた。それは一時は功を奏し、全国の半分近くの知行国を獲得するなど、国家機構のほとんどを手中に収めることになった。しかし、こうした権力の独占がかえって反対勢力の結集を促し、平氏の没落を早める結果となった。

鎌倉幕府の成立

源平の争乱
平清盛は後白河法皇を幽閉し、平氏の専制

的政権を築きあげた。しかし貴族や大寺社、地方の武士たちの平氏への不満は強く、繁栄は長く続かなかった。1180(治承じしょう4)年、清盛が孫である幼い安徳天皇を位につけると、後白河法皇の第2皇子以仁王もちひとおう(1151〜1180)と源頼政みなもとのよりまさ(1105〜1180)は、園城寺おんじょうじや興福寺を味方にして平氏打倒の兵をあげた。
大寺社の僧兵の力が一つにまとまるのを恐れた清盛は、直ちに攻撃を加え、源頼政は宇治で戦死し、以仁王も奈良に向かう途中で討ち取られた。

院政と平氏の台頭
平氏政権と天皇家関係系図 ©世界の歴史まっぷ

しかし決起を呼びかける以仁王の令旨りょうじは諸国に伝えられ、これに呼応した武士(在地領主)たちがつぎつぎと立ち上がった。彼らは各地の国司や荘園領主に対抗して自己の所領の支配権を強化・拡大しようとしており、その障害となる平氏政権を否定したのであった。内乱は全国に広がり、5年にわたって戦いが続けられた。これが治承・寿永の内乱じしょう・じゅえいのないらんである。

治承・寿永の内乱

治承・寿永の内乱は、一般的には源氏と平氏の戦いといわれる。しかし歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏と平氏の勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王の挙兵以降、軍事行動をおこすものが相次いだ。美濃・近江・河内の源氏、若狭・越前・加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏、肥後の菊池氏らである。彼らは平氏の施政に反発したのであって、初めから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層の存在があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ちあがったのである。

彼らの動向をまとめ上げ、武家の棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲みなもとのよしなか源行家みなもとのゆきいえ、あるいは平宗盛たいらのむねもりにも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよくこたえたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。なお、当時の合戦についてであるが、軍記には、例えば富士川の戦いは平家軍7万騎・源氏軍20万騎などと記されている。これは大変な誇張であり、保元の乱のときの平清盛軍300騎・源義朝軍200騎、という数字を参照すると、実数は10分の1以下であったろう。

平氏に反する勢力のうち、とくに強大だったのは源頼朝みなもとのよりとも(1147〜1199)の勢力である。頼朝は源義朝みなもとのよしともの子で、平治の乱のあと伊豆に流されていた。以仁王の令旨りょうじを叔父源行家から伝えられ、1180(治承じしょう4)年8月、妻政子の父北条時政ほうじょうときまさ(1138〜1215)らと挙兵した。

石橋山の戦いでは平氏方の大庭景親おおばかげちからに敗れて海路阿波国に逃れたものの、代々源氏に使えていた東国の武士が続々と馳せ参じ、早くも10月、頼朝は源氏の根拠地であった鎌倉に入った。平清盛は孫の平維盛たいらのこれもりを大将として頼朝追討の大軍を東国に派遣したが、平氏軍は駿河国の富士川で源氏の軍に大敗して京都に逃げ帰った。水鳥の飛び立つ音に驚き、源氏の夜襲と間違えて敗走したといわれる。頼朝は配下の武士たちの要望を入れてあえてこれを追いかけることをせず、鎌倉に帰って東国の経営に専念した。東国平定に失敗した平氏は、建設中の摂津福原京を放棄してやむなく京都に帰り、以仁王に加担した大寺社を焼き討ちし、近江・河内の源氏の一族を討伐して畿内の支配を固め、諸国の動乱に対処しようとした。
だが、1181(養和元)年閏2月の清盛の死と同年の畿内・西国の大飢饉(養和の飢饉)が、平氏に深刻な打撃を与えた。

福原京遷都

以仁王もちひとおうが敗死した翌6月、平清盛は安徳天皇・高倉上皇を奉じて摂津の福原京に遷都した。平家の指導力を高めるための措置であったが、貴族たちの反発は激しく、南都・北嶺の僧兵や近江・河内の源氏の反平氏の動きも活発になった。そのため清盛はやむなく新都造営を中断し、11月には都を京都に戻すことにした。

源頼朝の従弟いとこ源義仲みなもとのよしなか(1154〜1184)は、頼朝より1ヶ月ほどのちに信濃国で挙兵した。徐々に近隣の武士を従え、1181年6月、平氏の命を受けた越後の豪族城氏じょうしの攻撃を退けて北陸道に進出した。北陸道諸国には反平氏の気運が高まっており、義仲の勢力は急激に大きくなった。

1183(寿永2)年、平氏は再び平維盛たいらのこれもりを大将として軍勢を北陸に派遣したが、越中にいた義仲は加賀と越中の国境砺波山となみやま倶利伽羅峠くりからとうげで迎え討ち、これを撃破した。牛の角にたいまつを結んで夜襲をかけたと伝えられる一戦である。義仲は敗走する平氏軍を追って加賀国篠原でも勝利し、そのまま京都に攻め上がった。畿内の武士や寺社勢力も一斉に平氏に反旗を翻し、同年7月、平氏一門はついに京都から追い落とされた。

治承・寿永の内乱 源平の争乱 源平の争乱(治承・寿永の内乱)地図
源平の争乱(治承・寿永の内乱)地図 ©世界の歴史まっぷ

都での義仲は政治的配慮に乏しく、後白河法皇の反感をかい、反平氏勢力の掌握に失敗した。彼が平氏を打つべく中国地方に滞在する間に、法皇は頼朝の上京を促した。頼朝は弟の源範頼みなもとののりより源義経みなもとのよしつねを大将として東国の軍勢を派遣した。義仲は急ぎ防戦したが、味方となる武士は少なく、1184(寿永3、元暦元)年1月、近江国粟津あわづで戦死した。

源氏が相争っているうちに、平氏は勢力を回復して福原に戻り、京都帰還の機会をうかがっていた。後白河法皇は平氏追討の院宣を源頼朝に与え、源氏軍はただちに平氏の拠点一の谷を攻撃した。1184年2月の源平両氏の命運を賭けた戦いは、源義経の活躍を得て源氏側が勝利した。頼朝はこののち各地に有力な武士を派遣し、平氏や源義仲の勢力を掃討させた。平氏の基盤である四国・九州の武士も頼朝に臣従するようになった情勢をみて、1185(文治元)年2月、源義経は讃岐国屋島に平氏を急襲し、さらに長門国壇ノ浦に追い詰めた。源義経との海戦に敗れた平氏一門は、同年3月、安徳天皇とともに海中に没した。

鎌倉幕府 守護の配置(頼朝の奥州平定)地図
守護の配置(頼朝の奥州平定)地図 ©世界の歴史まっぷ

源頼朝の勢力増大を恐れた後白河法皇は、軍事に優れた源義経を重く用い、頼朝の対抗者にしようと試みた。頼朝は法皇の動向を警戒し、凱旋する義経を鎌倉に入れず、京都に追い返した。法皇は義経と叔父源行家に九州・四国の武士の指揮権を与え、頼朝追討の命令を下した。しかし武士たちは頼朝を重んじて法皇の命令を聞かず、義経は孤立し、奥州平泉の豪族藤原秀衡ふじわらのひでひらのもとに落ち延びた。秀衡の死後、その子の藤原泰衡ふじわらのやすひらは義経を殺害して頼朝との協調をはかったが、頼朝は自ら大軍を率いて奥州に進み、藤原氏一族を滅ぼした。1189(文治5)年のことである。これにより、武家の棟梁としての頼朝の地位を脅かすものは誰もいなくなったのである。

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