徳川光圀 とくがわみつくに(A.D.1628〜A.D.1700) 徳川御三家のひとつ、水戸藩2代藩主。初代藩主で家康の11男である徳川頼房の3男。朱舜水を招いて江戸藩邸内に彰考館をおき、歴史書『大日本史』の編纂に着手し、大義名分による社会の安定の史論を展開した。「水戸黄門漫遊記」のモデル。
徳川光圀
江戸時代前期の水戸藩主。頼房の3男。母は谷氏。幼名は千代松。字は子龍。号は梅里。諡は義公。寛文1(1661)年初代頼房より家督相続。以後、民政を重視し勧農策の実施や士風の高揚をはかり、社寺をきびしく統制。また、学問を好み、明の遺臣朱之瑜(舜水)を招いて師事した。特に大義名分を明らかにすることに努め、明暦3(57)年修史に志して江戸駒込の下屋敷に史館を設けた。のちに小石川に移して彰考館と名づけ『大日本史』の編纂に努力。修史事業は死後も続けられ、のちに水戸学の源流をなした。中納言であったため、その唐名により水戸黄門の名で親しまれた。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
『大日本史』編纂に生涯を捧げた
徳川御三家のひとつ、水戸藩2代藩主。初代藩主で、家康の11男である徳川頼房の3男。「本朝の史記」といわれる『大日本史』の編纂に生涯を傾けた。大義名分論で書かれた本書は、幕末の尊王論に思想的影響を与えた。近年、その業績を疑問視する声もある。「水戸黄門漫遊記」は名君の誉れ高かった徳川光圀をモデルに創作された。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻 -関ケ原の戦いから太平洋戦争の終結まで
幕藩体制の展開
幕政の安定
平和と秩序の確立
将軍と大名の関係が将軍優位に安定したのと同様に、大名と家臣の関係も大名優位に安定し、藩政の安定と領内経済の発展がはかられるようになった。いくつかの藩では、藩主が儒学者を顧問にして藩政の刷新をはかった。会津藩の保科正之は山崎闇斎(1618〜82)に朱子学を学んだ。岡山藩の池田光政(1609〜82)は熊沢蕃山(1619〜91)を用いて、蕃山は私塾花畠教場を、光政は郷学閑谷学校を設けた。水戸藩の徳川光圀(1628〜1700)は朱舜水(1600〜82)を招いて江戸の藩邸内に彰考館をおき、『大日本史』の編纂を始めた。加賀藩の前田綱紀(1643〜1724)は朱子学者木下順庵(1621〜98)らの意見を入れて、藩政に取り組んだ。幕府も藩も、つまり幕藩制は安定した。彰考館
1657(明暦3)年、江戸の水戸藩別邸(現・東大農学部)内においた『大日本史』の編纂局を、1672(寛文12)年、小石川の藩邸内(現・東京ドーム付近)に移して彰考館と名づけた。水戸には、1686(貞享3)年に城内に彰考館の別館を設けた。1830(天保元)年になって、すべてを水戸に統合した。『大日本史』の完成は、1906(明治39)年であった。

元禄文化
諸学問の発達
歴史学(元禄文化)
儒学 | 人物 | 著作 | 特色 |
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朱子学 | 林羅山 林鵞峰 | 本朝通鑑 | 羅山・鵞峰の父子で編集した歴史書。神武から後陽成天皇まで編年体による史書。中国の司馬光『資治通鑑』にならい、実証主義的な歴史叙述をめざした |
古学 | 山鹿素行 | 聖教要録 | 聖人のおこないと武士の日用道徳 |
中朝事実 | 日本中心の考え方を提起 | ||
歴史学 | 徳川光圀 | 大日本史 | 江戸藩邸に彰考館を設置。大義名分による社会の安定 |
新井白石 | 読史余論 | 公家政権は九変し、武家政権は五変して徳川幕府となるとする段階論 | |
古史通 | 「神とは人也」と『日本書紀』の神代巻を合理的に解釈 | ||
折たく柴の記 | 新井白石の自伝 | ||
藩翰譜 | 大名の系譜と伝記を集録 | ||
西洋記聞 | イタリア人シドッチの尋問をもとに著した西洋研究の書 |
参考