徳川斉昭 とくがわなりあき( A.D.1800〜A.D.1860)
水戸藩主。藤田東湖らを登用し、藩政改革を断行。ペリー来航当時、幕政に参画し尊王攘夷論を主張。将軍継承問題では一橋派として活動した。安政の大獄により蟄居となる。15代将軍慶喜の父。
徳川斉昭
水戸藩主。人材を登用し、藩政改革を断行。ペリー来航当時、幕政に参画し尊王攘夷論を主張。将軍継承問題では一橋派として活動した。安政の大獄により蟄居となる。
幕閣に疎まれた尊攘派の巨星
西洋列強の脅威を意識し、攘夷を唱えた海防参与時代
9代水戸藩主の徳川斉昭は、幕末情勢に強い危機感を抱き、幕府や朝廷に積極的に働きかけた人物である。斉昭は藩主に就任すると、軽輩出身の人材を登用し、藩校の弘道館設立、大規模軍事演習の実施、領内総検地など多くの藩政改革を行う。外国船の出現が頻繁になったことを警戒し、大砲の鋳造や造艦書の翻訳、間宮林蔵への北方調査依頼など海防にも力を入れる。しかし、斉昭は突然、幕府に隠居を命じられ、藩政改革は頓挫する。斉昭の改革を快く思わない藩内保守派の策謀であった。隠居後の斉昭は姉の嫁ぎ先である鷹司家を通じて朝廷に接近、幕府に対しても異国船打払、大船建造などに関する海防意見書を数度にわたって提出した。1853年(嘉永6) のペリー来航に際し、老中の阿部正弘の要請を受けて幕政に復帰。強硬な攘夷論者である斉昭は、和戦一決と大船建造を主張した。
幕藩体制の動揺
幕府の衰退
経済近代化と雄藩のおこり
諸藩も領内の一揆・打ちこわしの多発や藩財政の困難など、藩政の危機に直面していた。この危機を打開し、藩権力の強化をめざす藩政改革が、多くの藩で行われた。しかし水戸藩のように、藩主徳川斉昭(1800-60)の努力で藩政改革が行われ、反射炉なども築造されたが、藩内の抗争が激しく、改革がうまく進まなかった藩もある。
藩政改革
薩摩(鹿児島) | 藩主:島津重豪 調所広郷 島津斉彬 | 500万両の負債を無利息250年という長期年賦返済で棚上げ。 | 奄美3島(大島・徳之島・喜界島)特産の黒砂糖の専売制を強化。 | 琉球王国との貿易増大。 島津斉彬は洋式工場群(集成館)を建設。 |
長州(萩) | 藩主:毛利敬親 村田清風 | 銀8.5万貫(約140万両)の負債を37年賦返済で棚上げ。 | 紙・蝋の専売制を改革。 | 下関に越荷方をおいて、廻船の積荷の委託販売をして利益を得る。 |
肥前(佐賀) | 藩主:鍋島直正 | 均田制を実施し、本百姓体制を再建 | 陶磁器の専売制を進める。 | 日本で最初の反射炉を築いて大砲製造所を設けるなど藩権力を強化。 |
土佐(高知) | 藩主:山内豊重 改革派「おこぜ組」 吉田東洋 | おこぜ組が財政緊縮による藩財政の再建につとめるが失敗。 | 吉田東洋が紙・木材などの専売を強化する。 | |
水戸 | 藩主:徳川斉昭 藤田東湖 会沢安 | 全領の検地、弘道館を設立。 | 藩内保守派の反対で改革派不成功。 | |
宇和島 | 藩主:伊達宗城 有能な中下級藩士 | 紙・楮・蝋の専売強化。 | 村田蔵六を招いて兵備の近代化を図る。 | |
越前(福井) | 藩主:松平慶永(春嶽) 橋本左内 由利公正 | 教育の普及や軍備改革を行い、貿易振興策によって財政を再建 |
化政文化
政治・社会思想の発達
化政文化 学問・思想の動き
経世論 | 〈化政期、封建制の維持または改良を説く経世論〉 | |
海保青陵 (1755-1817) | 藩営専売制の採用など重商主義を説き、他藩より利をとる方策を主張。『稽古談』(流通経済の仕組みなどを平易に説明) | |
本多利明 (1743-1820) | 開国による重商主義的国営貿易を主張。『西域物語』『経世秘策』(ともに開国交易を提案) | |
佐藤信淵 (1769-1850) | 諸国を遊歴し、著述につとめる。『経済要録』(産業振興・国家専売・貿易の展開を主張)『農政本論』 | |
後期水戸学 | 水戸藩の『大日本史』編纂事業(1657〜1906)を中心に興った学派 | |
9代藩主徳川斉昭を中心に、藤田幽谷・東湖父子、会沢安らの尊王斥覇理論から攘夷論を展開。藤田東湖『弘道館記述義』会沢安『新論』→ 影響:尊王論と攘夷論とを結びつけ、尊王攘夷論(尊王:将軍は天皇を王者として尊ぶ。攘夷:諸外国を打払う。)を説き、幕末の思想に影響 | ||
藤田幽谷 (1774-1826) | 彰考館総裁として、『大日本史』編纂にあたる | |
藤田東湖 (1806-55) | 幽谷の子。藩主徳川斉昭の側用人として藩政改革にあたり、弘道館を設立。『弘道館記述義』 | |
会沢安 (1782-1863) | 藤田幽谷に師事し、彰考館総裁として、徳川斉昭の藩政改革に尽力。『新論』で尊王攘夷論を唱えた。 | |
尊王論 | 頼山陽 (1780-1832) | 安芸の人。『日本政記』『日本外史』を著し、勤王思想を主張。源平から徳川氏にいたる武家盛衰を記述 |
国学 | 平田篤胤 (1776-1843) | 大政委任論の立場に立つ尊王論で、幕府を否定していない。篤胤の大成した「復古神道」は、儒仏に影響されない純粋な古道を明らかにし、幕末の尊王攘夷論に影響を与えた。『古道大意』『古史伝』(国学書) |
後期の水戸学では、藤田幽谷(1774-1826)は、尊王が幕府の権威を維持するために重要であると説き、幽谷に学んだ会沢安(1782-1863)は『新論』で、対外的危機に対応して国家の独立を維持するために、天皇を中心とする政治·宗教体制を構想し、幽谷の子で『弘道館記述義』を密いた藤田東湖(1806-55)や徳川斉昭らも尊王攘夷運動に強い影響を与えた。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
開国
1853(嘉永6)年にペリーが来航した直後、老中阿部正弘(1819〜57)はペリーの来日とアメリカ大統領国書について朝廷に報告し、先例を破って諸大名や幕臣に国書への回答について意見を提出させた。幕府は、朝廷や大名と協調しながらこの難局にあたろうとしたが、この措置は朝廷を現実政治の場に引き出してその権威を高めるとともに、諸大名には幕政への発言の機会を与えることになり、幕府の専制的な政治運営を転換させる契機となった。また、幕府は越前藩主松平慶永(1828-90)·薩摩藩主島津斉彬(1809〜58)·宇和島藩主伊達宗城(1818〜92)らの開明的な藩主の協力も得ながら、幕臣の永井尚志(1816〜91)·岩瀬忠震(1818〜61)・川路聖謨(1801〜68)らの人材を登用し、さらに前水戸藩主徳川斉昭(1800〜60)を幕政に参与させた。( 安政の改革)
政局の転換
ハリスから通商条約の調印を迫られていたころ、幕府では13代将軍家定(1824〜58)に子がなかったため、その後継を誰にするのかという将軍継嗣問題が大きな争点となっていた。越前藩主松平慶永・薩摩藩主島津斉彬・土佐藩主山内豊信ら雄藩の藩主は、「年長・英明」な将軍の擁立をかかげて徳川斉昭の子で一橋家の徳川慶喜(1837〜1913)を推し、譜代大名らは幼年ではあるが血統の近い紀伊藩主徳川慶福(のち徳川家茂、1846〜66)を推して対立した。慶喜を推す一橋派は、雄藩の幕政への関与を強めて幕府と雄藩が協力して難局にあたろうとし、慶福を推す南紀派は、幕府の専制政治を維持しようとし、朝廷も巻き込んで激しく争った。結局通商条約をめぐる朝廷と幕府の対立、将軍継嗣問題をめぐる大名間の対立という難局に対処するため、南紀派の彦根藩主井伊直弼が大老に就任し、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印するとともに、一橋派を押し切って慶福を将軍の継嗣に定めた。
通商条約の調印は、開港を好まない孝明天皇の激しい怒りを招き、幕府への違勅調印の非難は高まったが、井伊は一橋派を厳しく取り締まり、公家や大名とその家臣、さらには幕臣たち多数を処罰し、弾圧した。この安政の大獄では、徳川斉昭・徳川慶喜・松平慶永らは蟄居・謹慎などを命じられ、越前藩士の橋本左内(1834〜59)・長州藩士の吉田松陰(1830〜59)・若狭小浜藩士の梅田雲浜(1815〜59)・頼山陽の子三樹三郎(1825〜59)らが処刑されるなど、処罰を受けた者は100名を超えた。しかし、この厳しい弾圧に憤激し、水戸藩を脱藩した浪士たちは、1860(万延元)年、井伊を江戸城桜田門外に襲って暗殺した。この桜田門外の変の結果、幕府の専制的な政治によって事態に対処しようとする路線は行き詰まり、幕府の独裁は崩れ始めた。