恵帝(西晋)( A.D.259〜A.D.307)
西晋第2代皇帝(在位290年5月16日 - 307年1月8日)。司馬衷。司馬炎の第2子。暗愚を極め、政治的無能力が西晋の混乱と滅亡の要因となる。賈皇后に操られ、八王の乱がおこると八王諸勢力の傀儡となった。
恵帝(西晋)
東アジア世界の形成と発展
北方民族の活動と中国の分裂
分裂の時代
司馬炎(武帝)は洛陽を都とし、280年には江南の呉を滅ぼして中国を統一した。武帝(西晋)は、権力の維持にあたって一族を各地に王として封じ、軍権を与えるなど大きな権力をもたせて、帝室の守りにしようとしたが、かえって皇帝の権力を弱めることになった。
八王の乱
武帝(西晋)のあと恵帝(西晋)が即位すると、これらの諸侯は外戚の政権争いに乗じて皇帝の後継者をめぐる争いを始めた(八王の乱)。
武帝(西晋)の子の恵帝(西晋)のとき、皇后の賈氏とその一族が、汝南王・楚王を利用して実権を握った。それに対して、趙王がたって賈氏を滅ぼし、恵帝(西晋)を退位させたので、斉王・長沙王・成都王・河間王がこれを討ち、306年、東海王が懐帝(西晋)を擁立して実権を握った。これを八王の乱といい、このとき、諸王が北方諸民族の軍事力を利用したため、これらの諸民族は自己の力を自覚するようになった。
さらに官僚たちの間では、実際の役に立たない議論をたたかわせるばかりで国家の危機的状況をかえりみない風潮(清談の風)がおこった。八王の乱のなかで兵力として活躍したのは、中国内地に住みついていた北方や西方からの遊牧民であり、これらが勢力をのばして各地で自立をはかり、晋の支配をくつがえした。