斉明天皇
斉明天皇 ©Public Domain

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斉明天皇さいめいてんのう A.D.594〜A.D.661
第35代皇極天皇こうぎょくてんのう(在位642〜645)。第37代斉明天皇(在位655〜661)。舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母。

斉明天皇

皇極天皇

皇極天皇元年(642)舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったため、皇極天皇として即位(49歳)。蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。
643年、小墾田宮に遷幸。
643年、飛鳥板蓋宮に遷幸。
643年、蘇我入鹿が厩戸王の子山背大兄王やましろのおおえのおうの斑鳩宮を攻め、11月11日に山背大兄王は自害する。

乙巳の変

皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する(乙巳の変大化の改新)。翌日6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲った。日本史上初の譲位とされる。

斉明天皇

孝徳天皇の崩御後、斉明天皇元年(655年)1月3日、62歳のとき、飛鳥板蓋宮で再び皇位に就いた(史上初の重祚)。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。

天皇系図 第26代〜第45代

推古天皇
天皇家系図(第26代〜第45代)©世界の歴史まっぷ
年譜
  • 斉明天皇元年(655年)
    • 7月11日 – 北の蝦夷99人・東の蝦夷95人・百済の調使150人を饗応。
    • 8月1日 – 河辺麻呂が大唐から帰国。
    • 10月13日 – 小墾田に宮を造ろうとしたが、中止。
    • 冬 – 飛鳥板蓋宮が火災に遭い、飛鳥川原宮に遷幸。
    • 8月8日 – 高句麗が大使に達沙、副使に伊利之、総計81人を遣わし、調を進める。
    • 9月 – 高句麗へ、大使に膳葉積、副使に坂合部磐鍬以下の使を遣わす。
    • 飛鳥の岡本に宮を造り始める。途中、高句麗、百済、新羅が使を遣わして調を進めたため、紺の幕を張って饗応。やがて宮室が建ったので、そこに遷幸し後飛鳥岡本宮と名付けるが、岡本宮が火災に遭う。
      • 香久山の西から石上山まで溝を掘り、舟で石を運んで石垣を巡らせた。
      • 吉野宮を作る。多武峰に両槻宮を作る。斉明天皇2年(656年・63歳)この時期、天皇主導での土木工事が相次ぎ、掘った溝は後世に「狂心の渠」と揶揄された。
    • 西海使の佐伯栲縄と吉士国勝らが百済より還って、鸚鵡を献上する。
  • 斉明天皇3年(657年・64歳)
    • 7月3日 – 覩貨邏国(とからのくに)の男2人・女4人が筑紫に漂着したので、召す。
    • 7月15日 – 須弥山の像を飛鳥寺の西に造り、盂蘭盆会を行なった。暮に覩貨邏人を饗応。
    • 9月 – 有間皇子が狂を装い、牟婁温湯に行き、帰って景勝を賞賛した。天皇はこれを聞いて悦び、行って観たいと思う。
    • この年 – 使を新羅に遣って、僧の智達・間人御厩・依網稚子らを新羅の使に付けて大唐に送ってほしいと告げる。新羅が受け入れなかったので、智達らは帰国。
  • 斉明天皇4年(658年・65歳)
    • 1月13日 – 左大臣巨勢徳多が死去。
    • 4月 – 阿倍比羅夫が蝦夷に遠征する。降伏した蝦夷の恩荷を渟代・津軽二郡の郡領に定め、有馬浜で渡島の蝦夷を饗応。
    • 5月 – 皇孫の建王が8歳で薨去。天皇は甚だ哀しんだ。
    • 7月4日 – 蝦夷二百余が朝献する。常よりも厚く饗応し、位階を授け、物を与える。
    • 7月 – 僧の智通と智達が勅を受けて新羅の船に乗って大唐国に行き、玄奘法師から無性衆生義(法相宗)を受ける。
    • 10月15日 – 紀温湯に行く。
    • 11月5日 – 蘇我赤兄が有間皇子の謀反を通報。
    • 11月11日 – 有間皇子を絞首刑に、塩屋鯯肴と新田部米麻呂を斬刑にする。
    • この年 – 沙門の智喩が指南車を作る。
  • 斉明天皇5年(659年・66歳)
    • 1月3日 – 紀温湯から帰る。
    • 3月1日 – 吉野に行く。
    • 3月3日 – 近江の平浦に行幸。
    • 3月10日 – 吐火羅人が妻の舎衛婦人と共に来る。
    • 3月17日 – 甘檮丘の東の川辺に須弥山を造り陸奥と越の蝦夷を饗応。
    • 3月 – 阿倍比羅夫に蝦夷国を討たせる。阿倍は一つの場所に飽田・渟代二郡の蝦夷241人とその虜31人、津軽郡の蝦夷112人とその虜4人、胆振鉏の蝦夷20人を集めて饗応し禄を与える。後方羊蹄に郡領を置く。粛慎と戦って帰り、虜49人を献じる。
    • 7月3日 – 坂合部石布と津守吉祥を唐国に遣わす。
    • 7月15日 – 群臣に詔して、京の内の寺に盂蘭盆経を説かせ、七世の父母に報いさせる。
  • 斉明天皇6年(660年・67歳)
    • 1月1日 – 高句麗の使者、賀取文ら百人余が筑紫に到着。
    • 3月 – 阿倍比羅夫に粛慎を討たせる。比羅夫は、大河のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる。比羅夫は粛慎を幣賄弁島まで追って彼らと戦い、これを破る。
    • 5月8日 – 賀取文らが難波館に到着。
    • 5月 – 勅して百の高座と百の納袈裟を作り、仁王般若会を行う。皇太子(中大兄皇子)が初めて漏刻を作る。阿倍比羅夫が夷50人余りを献じる。石上池のほとりに須弥山を作り、粛慎47人を饗応。国中の百姓が、訳もなく武器を持って道を往来。
    • 7月16日 – 賀取文らが帰る。覩貨邏人の乾豆波斯達阿が帰国のための送使を求め、妻を留めて数十人と西海の路に入る。
    • 7月 – 百済が唐と新羅により滅亡。
    • 9月5日 – 百済の建率の某と沙弥の覚従らが来日。鬼室福信が百済復興のために戦っていることを伝える。
    • 10月 – 鬼室福信が貴智らを遣わして唐の俘百余人を献上し、援兵を求め、皇子の扶余豊璋の帰国を願う。天皇は百済を助けるための出兵を命じ、また、礼を尽くして豊璋を帰国させるよう命じる。
    • 12月24日 – 軍器の準備のため、難波宮へ行幸。
  • 斉明天皇7年(661年・68歳)
    • 1月6日 – 西に向かって出航。
    • 1月8日 – 大伯海に至る。大田皇女が皇女を産み、大伯皇女と名付ける。
    • 1月14日 – 伊予の熟田津の石湯行宮に泊まる。
    • 3月25日 – 娜大津に着き、磐瀬行宮に居す。
    • 4月 – 百済の福信が、使を遣わして王子の糺解の帰国を求める。
    • 5月9日 – 朝倉橘広庭宮に遷幸。
    • 5月23日 – 耽羅が初めて王子の阿波伎らを遣わして貢献。
    • 7月24日 – 朝倉宮で崩御。
    • 8月1日 – 皇太子が天皇の喪に付き添い、磐瀬宮に到着。
    • 10月7日 – 天皇の喪が帰りの海路に出航。
    • 10月23日 – 天皇の喪が難波津に着く。
    • 11月7日 – 飛鳥の川原で殯した。9日まで発哀。

参考 Wikipedia

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いずれもマンガで、創作された部分はあるが、大まかな流れや飛鳥時代の動き、東アジアの情勢などを知ることで、歴史に興味を持つきっかけになると思う。登場人物が多いので、巻頭にある系図と照らし合わせ、登場人物の立場を把握しながら全巻一気に読んでほしい。

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