新羅 百済 6世紀の朝鮮半島地図 周辺国家の形成
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新羅


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新羅 (356年〜935年)

新羅しらぎは、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。新羅、高句麗百済の3か国が鼎立した7世紀中盤までの時代を朝鮮半島における三国時代と呼ぶ。7世紀中ごろに朝鮮半島をほぼ統一し、高麗、朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。

新羅

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東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

概要

  • 『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の斯蘆国」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代王・奈勿尼師今なこつにしきん以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。
  • 新羅の歴史は、『三国史記』新羅本紀・敬順王紀に記されるように、始祖から第28代真徳女王末年(654年)までを上代、第29代武烈王(金春秋)即位から第36代恵恭王末年(780年)までを中代、第37代宣徳王から滅亡までを下代と分類する。

三国時代(朝鮮半島)

6世紀中頃に半島中南部の加羅から諸国を滅ぼして配下に組み入れた。
唐が660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼした時には、新羅は唐軍指揮下で参軍した(羈縻政策きびせいさく)。
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統一新羅時代

唐が吐蕃と戦争を始めると、反乱を起こして旧百済領全土と旧高句麗の南半分を統治する唐(王朝)役所を襲撃して官員を殺戮し(唐・新羅戦争 670〜676)朝鮮半島の中南部を統一した。首都はほぼ金城(現在の慶尚北道慶州市)にあった。

後三国時代

9世紀末には新羅の国力は衰え、百済・高句麗の再興を図る勢力が出て後百済・後高句麗との鼎立による後三国時代となり、最終的には後高句麗から起こった高麗に帰順して新羅は滅亡した。

新羅の歴史

唐文化の波及と東アジア諸国 カルルク 唐(王朝) 唐の建国と発展 回鶻 突厥・ウイグルとソグド人 7世紀おわりの世界地図
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7世紀おわりの世界 – 世界の歴史まっぷDL

1145年に完成した『三国史記』の「新羅本紀」では、始祖から真徳女王までを上代、武烈王から恵恭王までを中代、宣徳王から敬順王までを下代と呼んでいる。
一方、日本の朝鮮史研究においては、新羅が半島を統一した時期を統一新羅時代と呼んでいる。

上代

新羅は長く高句麗に従属していたが、5世紀中頃からその支配下を脱却しようとしてこれと争うようになった。その傍らでは辰韓しんかん諸国に対する支配力を高め、加羅諸国の領有をめぐっては百済とも対抗する姿勢を明らかにし、ここに三国が相競う様相を顕われ始めた。さらには広開土王碑こうかいどおうりょうひ好太王碑こうたいおうひ)の銘文や日本の「三韓征伐さんかんせいばつ」伝承にも垣間見られるように、新羅は倭国による断続的な侵攻にさらされ、その結果として何らかのかたちで倭国の支配下にあった期間もあったと考えられている。

「新羅本紀」による新羅の建国は前57年だが、実際の建国は356年と考えられている。以下は『三国史記』や『日本書紀』が記すそれぞれの王の治世における事績である。

  • 新羅初代王赫居世居西干かくきょせいきょせいかんの時代
    • 倭人が侵攻してくるが、赫居世王の説得に応じて倭軍は撤退する。また重臣に、もとは倭人の瓠公ここうがいた。
  • 二代王南解次次雄なんかいじじゆうの時代
    • 倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった。
  • 第四代新羅王の脱解王(脱解尼師今だっかいにしきん)の時代
  • 脱解王は倭国から東北一千里の多婆那国の王の子といわれ、この多婆那国は竜神りゅうじん信仰を持っていたことや交易関係などから、日本列島の丹波国たんばのくににも比定され、脱解王の出身氏族である昔氏は倭人とされる。
    • 百済の多婁王たるおうと蛙山城(忠清北道報恩郡)をめぐって度々戦争があった。
    • 倭国が木出島(慶尚南道蔚山広域市の目島)に進入してきたが、角干(1等官の伊伐飡の別名)の羽烏ううを派遣したが勝てず、羽烏は戦死した。
    • 加羅と戦って大勝した阿飡(6等官)の吉門を波珍飡(4等官)に引き上げた。
  • 第五代新羅王の婆娑尼師今ばさにしきんの時代
    • 日本書紀で倭国に服したという新羅王波沙寐錦はさむきむのことを指すともいわれる。また、414年に建てられた広開土王碑(好太王碑)の第三面二行に「新羅寐錦」とあり、中原高句麗碑ちゅうげんこうくりひでは、高句麗を「大王」として新羅王を「東夷之寐錦」とされていることから、「寐錦」は、新羅の固有の君主号ともいわれる。法興王ほうこうおう11年(524年)の建立とされる蔚珍鳳坪碑ウルチン・ポンピョンひに法興王は「寐錦王」として現れている。また、同時に連なっている高官に「葛文王かつぶんおう」の表記が見られることから、6世紀初頭当時の新羅が絶対的な「王」による一元的な王権の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの権力の並存であったとも考えられている。なお、法興王の前代の智証麻立干ちしょうまりつかんの時代に国号を新羅として君主号を王に定めている。
  • 第6代新羅王の祇摩尼師今ぎまにしきんの時代
    • 大甑山城(釜山広域市東莱区)を築いた。同年4月に倭人が東部海岸に侵入した。
    • 翌年に倭国と講和した。
  • 第8代新羅王の阿達羅尼師今あだつらにしきんの時代
    • 158年、倭人が来訪する。
  • 第9代新羅王の伐休尼師今ばっきゅうにしきんの時代
    • 倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入した。
  • 第10代王奈解尼師今なかいにしきんの時代
    • 倭人が国境を犯す。奈解王は将軍利音に反撃させた。
    • 倭人が東部国境に侵入。同7月、将軍の昔于老が沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。
  • 第12代王沾解尼師今てんかいにしきんの時代
    • 倭人が于老を殺害。
  • 第14代の王儒礼尼師今じゅれいにしきんの時代
    • 天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨んだ。新羅王は恐れて、その罪に服した。
    • 倭人が一礼部に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った。
    • 倭兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、倭軍が攻略した。
    • 倭兵が長峯城を攻略した。
    • 伊西国に攻められ首都金城(慶州市)を包囲されるが、竹葉軍の助力で防衛に成功した。なお、この伊西国と日本のイツツヒコ王国との間に関係があったともされる
  • 第15代の王基臨尼師今きりんにしきんの時代
    • 倭国と使者を交わし、3月には楽浪・帯方の2国が帰服してきた。
    • 国号を新羅に戻した。
  • 第16代の王訖解尼師今きっかいにしきんの時代
    • 倭国王から王子の通婚を要求。王子ではないが、阿飡(6等官)の急利の娘を嫁として送った。なお、新羅は百済に使者を送って国交を開こうとしている。
    • 倭国は再び通婚を要求。しかし、新羅側は娘は嫁に行ったとして断った。
    • 翌年、倭国は国書を送ってきて国交断絶。
    • 倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した。

6世紀になると智証麻立干ちしょうまりつかん法興王ほうこうおうらが国制の整備によって国力を高め、6世紀中頃には真興王しんこうおうによる急激な領域拡大が可能となった。高句麗を攻撃し北に領土を広げ、百済・日本の連合軍を退け、562年には加羅地方の大加羅を滅ぼして占領し、文字通りの 三国時代となった。
中国に対しては564年に 北斉朝貢して翌年に冊封を受け、その一方で568年に南朝の にも朝貢した。このように中国大陸の南北王朝との関係を深めたことは、半島北部の高句麗に大きな脅威を与えた。 に対しても建国後まもなく使者を派遣して冊封を受けた。

唐(王朝)中国統一の後に危機感を募らせた高句麗は淵蓋蘇文えんがいそぶんが実権を握って緊急軍事態勢を敷き、新羅と激しく対立するようになっていた百済の義慈王ぎじおうと連携(麗済同盟)したため、新羅は国際的に孤立することとなった。
新羅は643年に善徳女王ぜんとくじょおうが唐に救援を求めたが、このときに唐からの救援は得られず、逆に女王を退けて唐(王朝)皇族を新羅王に据えることを求めてきた。
このことが契機となって、新羅国内では 親唐派反唐派の対立を生じ、上大等の毗曇が女王の廃位を求めて反乱を起こした。乱を治めた金春秋(後の武烈王)と金庾信(『三国史記』によれば、黄帝の子の少昊金天氏の子孫)とは真徳女王を立てて親唐路線を継承していった。金春秋は中国の律令制度を取り入れる改革を始め、650年にはそれまで新羅独自で用いていた年号(太和)を廃止し、唐(王朝)年号を用いるなどして、唐との連携を強めていった。

日本との関係
  • 広開土王碑によれば、「新羅は高句麗の属民であったが、倭が391年に百残・加羅・新羅を臣民となした」とあり、上代の時期に日本の属国になっていたことが窺える。
  • 倭の五王のうち珍王と済王が、文帝(南朝宋)から「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事安東大将軍」という称号を要求している記述がある。
  • 三韓征伐(新羅征伐・遠征)においては神功皇后の存在の有無はともかく、倭国から新羅(朝鮮半島)への大規模な軍事侵攻があったとみられる。

中代

(654〜780年)
武烈王の即位した654年から、その直系の王統が途絶える780年までの時代を中代と呼び、新羅の国力が最も充実していた時代であった。

新羅は金庾信が援軍を率いて、唐軍に付き随い百済へ進軍。
660年に百済を滅ぼし、663年に唐軍が白村江にて倭国の水軍を破ると(白村江の戦い)、668年に唐軍が高句麗を滅亡させた戦いにも従軍した。

統一新羅時代

唐が西方で吐蕃と戦争している隙に反乱を起こして、676年に唐(王朝)行政府に駐留する役人や警備部隊を奇襲して殺害、旧百済領と旧高句麗領の南半分を合わせて朝鮮半島をほぼ統一することに成功した。これ以後を日本では統一新羅時代と呼んでいる。

唐・渤海との関係
新羅
渤海(紫)と新羅(水色) Source: Wikipedia

7世紀新羅の金春秋(武烈王)は唐(王朝)冊封を受け、新羅国王となって百済と高句麗を滅ぼし半島を統一する道を選んだ。これ以後、朝鮮半島の国家は新羅であれ高麗であれ李氏朝鮮であれ全て中国皇帝の冊封下に入る。
半島統一後、唐に対して謝罪外交をする一方、引き続き唐との小競り合いが続いたので関係は緊張し続け、北境に長城を築くなどして唐に対抗した。
しかし、696年に唐と渤海との間に戦端が開かれると渤海により唐と新羅は国境線を接しなくなった。これ以後を今日の韓国や北朝鮮では南北国時代と呼んでいる。南北国時代とは、南の新羅と北の渤海を一組にした時代認識である。

732年、渤海に山東の蓬莱港を占領された唐は新羅に南からの渤海攻撃を要請、新羅は唐(王朝)要請を受けて渤海を攻撃、唐と新羅の関係は和解へと向かう。唐が渤海と和解すると新羅は渤海攻撃の功績が認められ、735年に唐から浿江以南の地を冊封された。

内政と社会情勢

統一新羅の成立と共に官僚制度の改革が図られた。降伏した百済・高句麗の王族、貴族を格下げした上で官位制度の中に組み入れ、律令体制を取り入れながら政治形態を変化させていった。
官吏の養成機関として国学という教育機関が置かれた。また、州・郡・県を基本と為す郡県制を基本とした地方支配体制が整えられた。旧新羅・任那・加羅領に3州、旧百済領に3州、旧高句麗領に3州の9つの州が置かれ、これらと副都五京によって地域支配が行われた。

唐(王朝)律令体制を取り入れながらも、位階などの名称は旧称のままで残されたりもしたが、8世紀半ばには唐風に改められている。唐(王朝)影響は非常に大きく、この頃、先祖伝来の姓や従来的な名もまた、全て漢族乃至中元風に改められている。

745年頃から750年代後半にかけて新羅で飢饉や疫病が発生し、社会が疲弊していた。755年には新羅王のもとへ、飢えのため、自分の股の肉を切り取って父親に食べさせた男の話が伝わるほどだった。このときに、日本の九州北部をはじめ、日本へ亡命し、帰化した新羅の民が多数いた。しかし、その移民の数が多いため、天平宝字3年(759年)9月、天皇は大宰府に、新羅からの帰化人に対して、帰国したい者があれば食料等を与えたうえで帰国させよとする勅を出した。翌年には、帰国を希望しなかった新羅人13人を武蔵国に送還した。また、飢饉や疫病によって、後述する新羅の賊が発生したともされる。

日本との関係

668年以降、日本は遣新羅使を派遣。672年の壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇)は、親新羅政策をとった。また、次代の持統天皇(在位690年〜697年)も亡夫の天武天皇の外交方針を継ぎ、同じく親新羅政策を執った。但し、親新羅と言っても対等の関係は認めず、新羅が日本に従属し朝貢するという関係であり、新羅は日本への朝貢関係をとった。

持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国しもつけのくにに、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。持統天皇3年(689年)にも投化した新羅人を下毛野に移し、翌持統天皇4年(690年)にも帰化した新羅人を武蔵国や、下毛野国に居住させる。霊亀元年(715年)には尾張国人の席田君邇近及び新羅人74人が美濃国を本貫地とし、席田郡に移される。天平5年(733年)

「王城国」改称問題

新羅が驕り、735年(天平7年)日本へ入京した新羅使が、国号を「王城国」と改称したと事後通告したため、日本の朝廷は無断で国号を改称した無礼を責め、使者を追い返した。両国関係は、朝鮮半島中南部を統一した新羅が、日本と対等な関係を要求した為に悪化した。なお、当時渤海が成立し、日本へ遣日本使を派遣していることも背景にあるとされる。

翌736年(天平8年)には遣新羅大使の阿倍継麻呂あべのつぐまろは新羅で非礼な扱いを受け、朝廷は伊勢神宮など諸社に新羅の無礼を報告し調伏のための奉幣をしており、以後しばらくは新羅使を大宰府に止めて帰国させ、入京を許さなかった。なお、阿倍継麻呂は新羅からの帰国途中に病死し、残された遣新羅使の帰国後、平城京では天然痘とみられる疫病が流行った。当時、この疫病が新羅から持ち込まれたと信じられた。

金泰廉による日本への朝貢

752年(天平勝宝4年)、新羅王子金泰廉ら700余名の新羅使が来日し、日本へ朝貢した。この使節団は、奈良の大仏の塗金用に大量の金を貢いだと推定されている。王子による朝貢であり、新羅は日本に服属した形となった。

日本に従属し朝貢を行った意図は明らかではないが、唐・渤海との関係を含む国際情勢を考慮し、緊張していた両国関係の緊張緩和を図ったという側面と交易による実利重視という側面があると見られている。金泰廉は実際の王子ではないとする研究が一部で出されているが、王子の朝貢によってより積極的な通商活動を意図していたとする主張には根拠が無い。

長安での席次争い

翌753年(天平勝宝5年)には長安の大明宮で開催された、唐(王朝)朝賀で遣唐使大伴古麻呂おおとものこまろが新羅の使者と席次を争い意を通すという事件が起こる。この際、唐は新羅が日本の従属国である事実を受け新羅を下位に置いた。この年、新羅の景徳王は遣新羅使に謁しなかった。

藤原仲麻呂の新羅征討計画

天平宝字2年(758年)、唐で安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲麻呂ふじわらのなかまろは大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じる。天平宝字3年(759年)新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられるが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わる。

8世紀の終わりに新羅の国内が混乱すると、再び日本に慇懃いんぎんな態度をとるようになり、宝亀10年(779年)、新羅は日本への服属を象徴する御調(みつき)を携え使者を派遣した。この調は、日本が新羅に要求し続けた念願の品であった。また、新羅の混乱により多数の難民が日本列島へ亡命し、大量に帰化を申請する事態が発生するが、日本側は「蛮国」の人民が天皇の徳を慕って帰化を願い出た事を嘉し、帰化を許可した。

しかし、翌780年に正規の遣新羅使は停止され、以後は遣唐使の安否を問い合わせる使者が数度送られたのみとなった。しかし民間レベル(主に交易)での交流は続けられており、唐・日本・新羅商人により、日本の文物を唐・新羅へ、唐・新羅の文物を日本へ、と運んで交易に励んだ。有名な新羅商人に張宝高ちょうほこうがいる。

下代

(780〜935年)
780年に武烈王の王統が絶えると王位継承の争いが激しくなり、王位簒奪や王都内での反乱が頻繁に発生する様になった。また骨品制により、新羅王族のみが上位官僚を占めるようになり官僚制度は行き詰まりを見せていた。災害や飢饉、また相次ぐ反乱や内戦、また渤海(698年〜926年)との対立などもあり、新羅は滅亡する。
この780年代から新羅滅亡までの期間(宣徳王から敬順王まで)を下代と呼ぶ。

恵恭王の時代

第36代の王恵恭王の在位中に、律令体制の推進派と旧来の貴族連合的体制への復帰派との間の対立は顕在化し、反乱が多数発生する。

  • 768年7月 : 一吉飡(7等官)大恭・阿飡(6等官)大廉の兄弟の反乱。貴族連合体制復活派の反乱とみられる。王都を33日間包囲するが、王の軍隊が平定した。
  • 770年8月 : 大阿飡(5等官)金融の反乱。金融は金庾信の後裔であり、中央貴族に対抗する地方勢力を代表する。律令体制推進派と見られる。
  • 775年6月 : 伊飡の金隠居の反乱。元侍中の金隠居は金融の反乱の後に退官しており、後に反乱を起こした。貴族連合体制復活派の反乱と見られる。
  • 775年8月 : 伊飡の廉相、侍中(現職)の正門が反乱を企てたことが発覚して誅滅された。正門は金隠居の退官の後に侍中に就任しており、律令推進派の反乱と見られる。こうした政治的対立の中で776年正月には新羅政府は教書を出し、律令体制を強固に推進した景徳王が唐風に改名した百官の名称を、旧来のものに戻した。貴族連合体制派への譲歩であったと見られるが、律令体制推進の政策を廃止しようとするものではなく、同年3月には倉部(徴税)の史(3次官)を8名増員している。名目的には律令体制の推進を控えながらも、国家財政や人民支配の強化という点においては貴族層・官僚層の間には共通の意識が持たれていたことの現われと考えられている。
  • 780年2月、伊飡の志貞が反乱を起こし宮中を包囲する。同年4月、上大等の金良相(後の宣徳王)が伊飡の金敬信(後の元聖王)とともに挙兵し、志貞を滅ぼす。この戦乱の中で恵恭王も王妃ともに殺害された。
宣徳王

次の第37代新羅王宣徳王は、782年閏正月、唐に対して朝貢を行った。勢力を強めている渤海に備え、北方面の守備に努め、781年7月には浿江(大同江)以南の地に使者を送って安撫し、また782年2月には漢山州(京畿道広州市)の住民を浿江鎮(黄海北道平山郡または金川郡)へ移住させている。在位6年目の785年正月になってようやく唐(王朝)徳宗から<検校大尉・雞林州刺史・寧海軍使・新羅王>に冊封されたが、病に倒れてそのまま正月13日に死去した。

元聖王

第38代新羅王元聖王は、即位後直ち(785年2月)に自祖先への追封を行い、五廟を再整備した[85]。788年には官吏登用の制度として、科挙に類似する「読書三品」を定めたように、儒教的・律令体制的な政策を打ち出した。また、度々の天災により民が餓えることがあったが、律令体制の下で貢納された租粟を振舞って民の救済を行っている。恵恭王の末年以来の政治的混乱の収拾に努めたが、こうした天災が続いたこともあって、788年秋には国の西部で盗賊が現われ、791年には元の侍中の悌恭が反乱を起こして誅殺されるなど、安定はしなかった。

唐に対しては786年に使者を派遣して貢納し、徳宗からは新羅の長年の忠勤を慰撫する詔書をいただいている。また、宣徳王に与えられた官爵〈検校大尉・雞林州刺史・寧海軍使・新羅王〉をそのまま引き継いだ。

哀荘王の時代
  • 第40代新羅王哀荘王の時代(在位800年〜809年)の801年10月には、耽羅たんら国(済州島)からの朝貢を受けた。耽羅国は文武王19年(679年)に新羅に隷属していたが、後に独立していた。
  • 802年には順応・利貞らの高僧に命じて伽耶山に海印寺(慶尚南道陜川郡伽耶面)を創建させた。
  • 803年には日本とも国交が再開されたが、両国の交渉について『三国史記』新羅本紀が哀荘王の4年(803年)7月「国交を開き通好した」、5年(804年)5月「日本から黄金三百両が進上された」、7年(806年)3月「日本からの使者を朝元殿で引見した」、9年(808年)2月「日本国の使者を厚くもてなした」という4例を伝えるのに対し、『日本後紀』では延暦23年(804年)9月己丑条で「大伴宿禰岑万里を新羅に遣わした」の1例を伝えるのみである。
  • 805年、唐で順宗が即位し、先王の昭聖王への哀悼の使者が送られ、哀荘王も新たに冊封されて<開府儀同三司・検校大尉・使持節大都督・雞林州諸軍事・雞林州刺史・兼持節充寧海軍使・上柱国・新羅王>へと官爵を進められた。唐には朝貢及び、冊命の謝恩使の派遣を行う。
  • 809年7月、摂政の金彦昇(後の憲徳王)が伊飡(2等官)の悌邕(ていよう)とともに反乱を起こし、哀荘王は弟の体明侍衛とともに殺害された。『三国遺事』王暦に拠れば、元和4年(809年)7月19日に王の叔父の憲徳・興徳の2人によって殺害された、としている。
憲徳王の時代

憲徳王は即位するとただちに唐に使者を派遣して先代の哀荘王の死を伝え、唐(王朝)憲宗からは〈開府儀同三司・検校大尉・持節大都督・雞林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・上柱国・新羅王〉に冊封された。唐に対しては810年10月に王子金憲章を送って金銀製の仏像などを献上したほか、定期的に朝貢を行った。また、819年7月には唐(王朝)鄆州(山東省済寧市)で李師道が反乱を起こすと、兵馬を徴発する憲宗の詔勅に応えて将軍金雄元ら3万の援軍兵を派遣している。

812年9月には渤海へも使者を派遣して動向をうかがっていたが、渤海の宣王大仁秀が即位するに及んで緊張を増し、後に826年7月には漢山州(京畿道広州市)以北の州・郡から1万人を徴発して浿江(大同江)沿いに300里の長城を築いて、渤海の南下を食い止める備えとした。

飢饉と地方豪族の反乱

一方、国内では度々災害が起こって民が餓える事態が発生した。租を免じたり穀倉を開いたが、816年には浙江省東部へ流入した民が170人にものぼった。

この時代には、地方の村主や王都から地方に飛び出した王位継承に敗れた王族や官僚らが軍事力を背景に勢力を伸ばし、新興の豪族として勃興した。そして、地方で頻繁に反乱を起こす。819年3月には各地の賊徒がいっせいに蜂起したが、諸州の都督や太守に命じて鎮圧される。しかしこうした地方勢力を王権のもとに確実に掌握できていたわけではなく、首都慶州中心主義的な政治に対して地方勢力は反感を持ちながらも、団結して対抗するための中心を求めていた。

日本への賊徒侵攻と弘仁新羅の乱

新羅の国内情勢が悪化する一方、一部の新羅人は、日本へ亡命したり、また賊化した新羅人が度々日本を襲撃してもいる。

弘仁2年(811年)12月6日、新羅船三艘が対馬島に現れ、1艘が下県郡の佐須浦に着岸した。船に10人ほど乗っており、他の2艘は闇夜に流れたが、翌12月7日未明、灯火をともし、相連なった20余艘の船が姿を現し、賊船である事が判明した。そこで先に着岸した者のうち5人を殺害したが、残る5人は逃走し、うち4人は後日補足した。島の兵庫を衛り、軍士に動員をかけ、新羅(朝鮮半島方面)を望み見ると、毎夜数箇所で火光が見えると大宰府に報告された。大宰府は通訳と軍毅を対馬へ派遣し、旧例に准じて要害の警備につくすべき事を大宰府管内と長門・石見・出雲等の国に通知した。

弘仁4年(813年)2月29日、肥前の五島・小近島(小値賀島)に、新羅人110人が五艘の船に乗り上陸し、島民100余人を殺害した。島民は新羅人9人を打ち殺し101人を捕虜にした。4月7日には、新羅人一清、清漢巴らが日本より新羅へ帰国した、と大宰府より報告された。この言上に対して、新羅人らを訊問し、帰国を願う者は許可し、帰化を願う者は、慣例により処置せよと指示した。事後の対策として通訳を対馬に置き、商人や漂流者、帰化・難民になりすまして毎年のように来寇する新羅人集団を尋問できるようにし、また承和2年(835年)には防人を330人に増強した。承和5年(838年)には、796年以来絶えていた弩師(どし)を復活させ、壱岐に配備した。弘仁5年(814年)、化来した新羅人加羅布古伊等6人を美濃国に配す。

弘仁11年(820年)には日本国内の遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が反乱(弘仁新羅の乱)を起こしたがその殆どが処刑され、鎮圧されている。天長元年(824年)、新羅人辛良金貴、賀良水白等5人を陸奥国に安置し、法により復を給し、乗田を口分田に充てる。

金憲昌・梵文の反乱

822年3月、武珍州(全羅南道、光州広域市)・菁州(慶尚南道晋州市)・熊川州(忠清南道公州市)の都督職を歴任した金憲昌が反乱を起こし、熊津(公州市)を都として長安国と号すると、その支配領域は武珍州・菁州・熊川州・完山州(全羅北道全州市)・沙伐州(慶尚北道尚州市)の五州及び国原(忠清北道忠州市)・西原(忠清北道清州市)・金官(慶尚南道金海市)の三小京に及んだように、旧百済の領域を中心として国土の大半が金憲昌を支持し、王権に対抗する姿勢を見せることとなった。金憲昌の反乱は1ヶ月ほどで鎮圧されたが、乱の鎮圧に活躍した討伐軍は貴族の私兵と花郎集団であり、律令体制の下での兵制は有名無実化していることが露見した。

825年1月には金憲昌の子の金梵文が高達山(京畿道驪州郡)を根拠として反乱を起こしたが、これは北漢山州(京畿道広州市)の都督によって鎮圧された。

これらの反乱の平定の論考功賞においては、反乱をいち早く王都に知らせた者を重視する王都中心主義が強く見え、また反乱に加担しなかった地方には7年間の租税を免除するなどしており、地方行政を疎かにするだけではなく、王権の地方への関与を放棄して地方の自治を公認するかのような政策に堕したと見られている。

826年10月に憲徳王は死去した。

興徳王の時代

第42代新羅王興徳王は、文宗(唐)からは、〈開府儀同三司・検校太尉・使侍節大都督・雞林州諸軍事・兼持節充寧海軍使・新羅王〉に冊封されて以降、唐への朝貢を続けて文物の招来に努め、827年に唐に入った旧高句麗系の僧の丘徳は経典を持ち帰った。また、828年に帰国した金大廉が持ち帰った茶を持ち帰り、新羅での喫茶が盛んになった。827年に漢山州(京畿道広州市)瓢川県から速富の術(すぐに富貴になれる方法)という信仰が流行り出す。政府は教祖を遠島へ流刑とした。

832年の春夏の旱魃、7月の大雨で凶作となり、餓えた民衆が盗賊となって蜂起する。10月には各地に使者を派遣して慰撫に努めた。翌833年にも凶作で民が飢餓に苦しみ流行り病で多くの死者を出すと、834年10月には王自らが巡幸して民に穀物を分け与え、民心の安定を図ろうとした。同834年には、身分の上下に応じて色服・車騎・器物・家屋などの区別を厳然とさせて違反者には刑罰を用いるとする教書を発布して、奢侈を禁じるとともに王都の住民に対する身分序列を明確化させることとした。この教書の中で規定された身分序列は「真骨・六頭品・五頭品・四頭品・平人のそれぞれ男女」としており、7世紀中葉に成立していた王族を中心とする身分序列である「骨制度」(聖骨・真骨)に対して「頭品制度」とされる。これら骨制度・頭品制度をあわせて新羅の骨品制度という。

遣唐使船保護に関する日羅外交

承和3年(836年)、日本が遣唐使を久しぶりに派遣することが決定した際、遣唐使船が難破した場合の保護を新羅に要求した。すると、新羅側執事省は、使者紀三津きのみつを問い詰め、「小人の荒迫こうはくの罪を恕し、大国の寛弘の理を申す」との蝶を日本へ送った。「小人」とは使者紀三津を、「大国」は新羅自身を指す。

このような新羅の対等または尊大な態度に対して、それまで新羅を「蛮国」とみなしてきた日本は憤慨し、『続日本後紀』は、この事件を後世に伝えなかったら、後人は得失を判断できないとして執事省蝶全文を掲載している。

承和9年(845年)、日本は外交方針を変換させ、太宰大弐藤原衛ふじわらのまもるは新羅人の越境禁止を進言し、以後、帰化を申請する場合でも、漂着民に食料衣服を与えて追い返せとした。これは『貞観格じょうがんきゃく』にも収められ、以後の対新羅外交の基本方針になった。

張保皐の乱

張保皐ちょうほこうのもとに集結した祐徴らの一派は838年3月に軍事活動を起こし、祐徴派の金陽が武州(光州広域市)を下してさらに南原小京(全羅北道南原市)を陥落させた。12月になって金陽が武州鉄冶県(全羅南道羅州市)まで軍を進めたところで新羅王閔哀王びんあいおうは金敏周を派遣して迎撃したが、金陽軍の前に壊滅した。839年1月19日、金陽軍が達伐(大邱広域市)にまで及び、王は禁軍を用いて防戦に努めたがかなわず、兵の半数以上が戦死した。この敗戦を聞いた王の側近は皆逃げ出してしまい、王も殺害された。祐徴は王の儀礼を以て閔哀王の屍を埋葬し、また、古礼に則って即位式を執り行い、王位を継承し、神武王として即位した。しかし、神武王は病で同年、死す。その子文聖王は、政権交代に役のあった張保皐ちょうほこうに官位を与えるが、張は不満を持ち、846年、清海鎮(全羅南道莞島)で反乱を起こしたが、王軍は張の暗殺に成功する。

しかしながら、これらの動揺は地域社会にも波及し、9世紀末には、農民の反乱や豪族の独立が頻発する。

景文王

第48代新羅王景文王は、唐へ862年7月に使者を派遣して土産物を貢納した。864年4月に日本からも国使を迎えたとされるが、日本側の史書には対応する記事はない。
865年4月には懿宗(唐)から<開府儀同三司・検校太尉・侍節大都督・雞林州諸軍事・上柱国・新羅王>に冊封された。869年7月には王子の金胤らを唐に派遣し、馬二匹・砂金百両・銀二百両ほか、さまざまの進奉を行った。翌870年2月には沙飡(8等官)の金因を唐に宿衛させ、874年には僖宗からの宣諭使を受け、唐との交流は盛んになった。

しかし、866年10月には伊飡(2等官)の允興がその弟の叔興・季興とともに反逆を謀った。事前に発覚して允興らは岱山郡(慶尚北道星州郡)に逃走したが、捕縛されて斬刑に処され、一族が誅滅された。

867年5月には王都金城(慶尚北道慶州市)で疫病が流行り、同年8月には洪水が起こった。地方各地でも穀物が実らず、王は各地へ安撫の使者を派遣して慰問に努めた。868年1月には伊飡の金鋭・金鉉らが反乱を起こして誅殺された。870年には王都が地震・洪水に見舞われ、その冬には再び疫病が流行った。873年にも飢餓と疫病が起こり、王は民に穀物を与えて救済したが、政情は安定しなかった。さらに874年5月にも伊飡の近宗が反乱を起こして宮中まで至り、王は近衛兵を派遣して撃破し、逃れた近宗一味を捕らえて車裂きの刑にした。875年7月8日に景文王は死去。

日本への賊徒侵攻

貞観8年(866年)には、肥前基肆郡擬大領山春永・藤津郡領葛津貞津・高来郡擬大領大刀主・彼杵郡住人永岡藤津らが、新羅人と共謀し、対馬を攻撃しようとした計画が発覚している。

貞観11年(869年)6月から、新羅の海賊、艦2艘に乗り筑前國那珂郡(博多)の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた。日本側は追跡したが、見失ったと『日本三代実録』に記録があり、また「鄰國の兵革」、隣国である新羅の戦争(内戦)のことが背景にあるのではないかと卜(うらない)が伝えたとある[104]。なお、同貞観11年(869年)5月26日(ユリウス暦7月9日)には、貞観地震や肥後で地震が発生している。

日本政府は沿海諸郡の警備を固めたほか、内応の新羅商人潤清ら30人を逮捕し放逐することに決めた。その後、新羅に捕縛されていた対馬の猟師・卜部乙屎麻呂が現地の被害状況を伝えたため、結局大宰府管内のすべての在留新羅人をすべて陸奥国などに移し口分田を与えて帰化させることに定めた。このとき新羅は大船を建造しラッパを吹き鳴らして軍事演習に励んでおり、問えば「対馬島を伐ち取らんが為なり(870年2月12日条)」と答えたという。また現地の史生が「新羅国の牒」を入手し、大宰少弐藤原元利万侶ふじわらのげんりまろの内応を告発した。

870年2月15日、朝廷は弩師や防人の選士50人を対馬に配備する。また、在地から徴発した兵が役に立たないとみた政府は、俘囚すなわち律令国家に服属した蝦夷を配備した。これらの国防法令は『延喜格(えんぎきゃく)』に収められ、以後の外交の先例となった。

また、伊勢神宮、石清水八幡宮、香椎、神功陵などに奉幣および告文をささげ、「わが日本の朝は所謂神明の国也。神明の護り賜わば何の兵寇が近く来るべきや(日本は神の国であり、神の守護によって敵国の船は攻め寄せない)」と訴えた。こうして新羅を敵と認識する考えは神国思想の発展へとつながっていった。また、神功皇后による三韓征伐説話もたびたび参照されるようになる。

貞観12年(870年)9月、新羅人20人の内、清倍、鳥昌、南卷、安長、全連の5人を武蔵国に、僧香嵩、沙弥傳僧、關解、元昌、卷才の5人を上総国に、潤清、果才、甘參、長焉、才長、眞平、長清、大存、倍陳、連哀の10人を陸奥国に配する。

また貞観14年から19年にかけて編纂された『貞観儀式』追儺儀(ついなのぎ)では、陸奥国以東、五島列島以西、土佐国以南、佐渡国以北は、穢れた疫鬼の住処と明記されている。こうして対新羅関係が悪化すると、天皇の支配する領域の外はケガレの場所とする王土王民思想も神国思想とともに形成された。

憲康王

憲康王の時代(在位875年〜886年)には、唐へ876年7月に朝貢を行い、878年4月には 僖宗(唐)から冊封された。同年7月に使者を送ろうとしたが、黄巣の乱の起こったことを聞き及んで使者の派遣は中止した。後に885年10月になって、黄巣の乱の平定されたことを祝賀する使者を唐に送った。

878年8月には日本からの使者を朝元殿で引見したこと、882年4月には日本国王が黄金300両と明珠10個とを進上する使者を派遣してきたことを『三国史記』新羅本紀は伝えているが、日本側の史料には対応する記事は見られない。869年に新羅の海賊船が博多を襲って以来、新羅と日本との間には緊張関係が生じており(新羅の入寇を参照)、『日本三代実録』元慶四年(880年)条によれば、新羅の賊が侵入するという情報を得た日本海沿岸の諸国は厳重な警戒態勢をとっていた。しかしその間にも、公私にわたる使者の往来はあったものと見られている。

『三国史記』新羅本紀には憲康王の時代は順調であったと記しているが、879年6月に一吉飡(7等官)の信弘が反乱を起こして誅殺された。

日本への賊徒侵攻

『扶桑略記』には寛平6年(884年)の9月(旧暦)に新羅船45艘は対馬を襲ったが、日本は大宰府の奮戦で、これを迎撃して危機を脱した。合戦後の捕虜となった新羅人の賢春は尋問で、前年来の不作により「人民飢苦」の状態が続き、新羅では「王城不安」だったと答えている。これを打開すべく王の命令により、2500人の軍が大小百艘に分乗、飛帆したと記されている。なお『三国史記』では10年に相当するが、10年の記述は三国史記の段階では消失している。

在位12年目の886年7月5日に憲康王は死去。続く定康王の時代、887年1月には金蕘きんじょうが反乱を起こしている。

真聖女王

新羅下代唯一の女王真聖女王は、三国史記によればもともと角干(官位)の弘と通じていたが、即位すると常に入内させて用いていた。間もなく魏弘が卒して後は少年美丈夫2~3名を密かに引き入れて姦淫し、彼らに要職を授けて国政を委ねた。このため綱紀はおおいに弛緩した。この女王の治世には国内で反乱が続発し、後三国時代の幕開けとなる。治世11年の897年、女王は「盗賊蜂起、此れ孤の不徳なり」と宣言し、「太子」に譲位してしまう。この年12月女王は金城(慶州)の北宮で死去。

日本への賊徒侵攻

真聖女王の時代にも日本への新羅賊徒が侵攻している。893年5月11日、新羅の賊が肥後国飽田郡(現熊本市)で民家を襲撃し放火した。また肥前国松浦郡においても襲撃してきたが、逃げた。寛平6年(894年)、唐(王朝)将軍も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が対馬に侵攻を始めた。9月5日の朝、対馬守文屋善友ふんやよしともは郡司士卒を励まして賊徒45艘を弩をかまえた数百の軍勢で迎え撃ち、220人を射殺した。賊は計、300名を討ち取った。また、船11、太刀50、桙1000、弓胡やなぐい各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った。捕虜がいうには、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。その全容は大小の船100艘、乗員2500、逃げ帰った将軍はなお3人いて、特に1人の「唐人」が強大である、と証言した。翌年の寛平7年(895年)にも、新羅の賊が壱岐を襲撃し、官舎が焼かれた。

このような賊の来襲は、新羅滅亡後の高麗時代にも発生している。

後三国時代

有力な勢力となった農民出身の甄萱けんけんが892年に南西部に後百済を、新羅王族の弓裔きゅうえいが901年に北部に後高句麗を建て、後三国時代に入る。第52代新羅王の孝恭王は、これに対抗する事ができず酒色におぼれ、新羅の領土は日増しに削られて行き新羅は滅亡の道をたどることになる。

高麗の建国
新羅
915年頃の新羅の版図(水色) Source: Wikipedia

後高句麗の武将であった王建(太祖(高麗王))は後百済との戦争で何度も勝利し、立派な人格で群臣たちの信望が厚かった。しかし弓裔には嫌われ、命を狙われそうなこともあった。弓裔は宮殿を再建したため、民衆の不満が高まった。また自分を弥勒菩薩と呼ばせて観心法で人の心を見ることができると言い、反対派を粛清した。王建は弓裔の暴政に対して政変を起こして弓裔を追放し918年に高麗を興した。

新羅の景明王は920年、王建と誼を通じて後百済に対抗したが、924年に亡くなった。次の景哀王は927年に宴会をしている最中、後百済の甄萱けんけんに奇襲を受け、殺された。その次の敬順王は甄萱により王位に就けられた。

後百済の政変と新羅滅亡

以降、高麗と後百済の戦争が続いたが、935年、後百済の王の甄萱が四男に王位を継がせようとすると、長男の神劍(後百済の第2代王)が反乱を起こし、神劍は甄萱を寺院に監禁し、王位を奪った。甄萱は935年6月、後百済から逃げ出して高麗に亡命した。王建は甄萱を国賓として迎えた。同935年年11月、新羅の敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順した。これにより新羅は滅亡した。

その後、高麗は翌年の936年に後百済を滅亡させ、朝鮮半島は高麗によって統一された。

歴代王

  1. 赫居世居西干
  2. 南解次次雄
  3. 儒理尼師今
  4. 脱解尼師今
  5. 婆娑尼師今
  6. 祇摩尼師今
  7. 逸聖尼師今
  8. 阿達羅尼師今
  9. 伐休尼師今
  10. 奈解尼師今
  11. 助賁尼師今
  12. 沾解尼師今
  13. 味鄒尼師今
  14. 儒礼尼師今
  15. 基臨尼師今
  16. 訖解尼師今
  17. 奈勿尼師今
  18. 実聖尼師今
  19. 訥祇麻立干
  20. 慈悲麻立干
  21. 炤知麻立干
  22. 智証麻立干
  23. 法興王(514-540)
  24. 真興王(540-576)
  25. 真智王(576-579)
  26. 真平王(579-632)
  27. 善徳女王(632-647)
  28. 真徳女王(647-654)
  29. 武烈王(654-661)
  30. 文武王(661-681)
  31. 神文王(681-692)
  32. 孝昭王(692-702)
  33. 聖徳王(702-737)
  34. 孝成王(737-742)
  35. 景徳王(742-765)
  36. 恵恭王(765-780)
  37. 宣徳王(780-785)
  38. 元聖王(785-798)
  39. 昭聖王(798-800)
  40. 哀荘王(800-809)
  41. 憲徳王(809-826)
  42. 興徳王(826-836)
  43. 僖康王(836-838)
  44. 閔哀王(838-839)
  45. 神武王(839)
  46. 文聖王(839-857)
  47. 憲安王(857-861)
  48. 景文王(861-875)
  49. 憲康王(875-886)
  50. 定康王(886-887)
  51. 真聖女王(887-897)
  52. 孝恭王(897-912)
  53. 神徳王(912-917)
  54. 景明王(917-924)
  55. 景哀王(924-927)
  56. 敬順王(927-935)
新羅王系図
新羅王系図 Wikipedia ©Public Domain

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