方広寺
方広寺の鐘銘 Wikipedia

方広寺鐘銘事件


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方広寺鐘銘事件 こうほうじしょうめいじけん 1614(慶長19)

豊臣秀吉が創建した方広寺本尊は1596(慶長元)年の地震で大仏殿は倒壊し、秀頼は1612(慶長17)年に本堂再建。1614(慶長19)年3月、梵鐘が完成したが、この巨鐘の銘に「国家安康」「君臣豊楽、子孫昌」の部分があり、これを「家康の名を二分して国安らかに、豊臣を君として子孫殷昌を楽しむ」の意味であると家康は豊臣氏を責めた。その責任を、豊臣氏の国替えか、淀君の江戸人質か、二者択ーで迫り、大坂方を開戦(大坂冬の陣)に踏み切らせた。

方広寺鐘銘事件

幕藩体制の確立

幕藩体制の成立

江戸幕府の成立

しかし、家康にしたがわない秀吉の子豊臣秀頼は依然として大坂城におり、摂津·河内・和泉3カ国65万石余りの一大名になったとはいえ、名目的には秀吉以来の地位を継承しているかにみえた。1605(慶長10)年、家康は将軍職が徳川家の世襲であることを諸大名に示すため、自ら将軍職を辞し、子の徳川秀忠(1579〜1632)に将軍宣下を受けさせた。駿府に隠退して大御所と称した家康は、実権を握り続け、ついに1614(慶長19)年、方広寺の鐘銘事件をきっかけに、10月大坂冬の陣を引きおこし、12月いったん和議を結んだ。翌1615(元和元)年4月大坂夏の陣を戦い、5月大坂城陥落、淀君(1567〜1615)·秀頼母子の自害によって戦いは終わった。ここに「元和偃武げんなえんぶ」と呼ばれる「平和」の時代が到来した。

方広寺鐘銘事件

方広寺大仏殿は奈良の東大寺大仏殿を上回る規模で、1589(天正17)年、秀吉が国家鎮護こっかちんごを祈願する目的で創建した。文禄・慶長の朝鮮侵略にのぞみ、国家の精神的統一をめざしたのであろう。本尊は6丈(約18m)に及ぶ大仏であったが1596(慶長元)年の地震で大仏殿は倒壊した。その後の工事で1612(慶長17)年に本堂は再建され、1614(慶長19)年3月には巨大な鐘も成った。この巨鐘の銘に「国家安康こっかあんこう」「君臣豊楽くんしんほうらく子孫殷昌しそんいんしょう」の部分があり、これを「家康の名を二分して国安らかに、豊臣を君として子孫殷昌を楽しむ」の意味であると家康は豊臣氏を責めた。その責任を、豊臣氏の国替えか、淀君の江戸人質か、二者択ーで迫り、大坂方を開戦に踏み切らせた。

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