明和事件 めいわじけん
宝暦事件で逃れた藤井右門が山県大弐と甲府・江戸城攻撃の軍略を述べたことなどを理由に、1767(明和4)年、両人が死刑、竹内式部も流刑となった事件。
明和事件
宝暦事件で逃れた藤井右門が山県大弐と甲府・江戸城攻撃の軍略を述べたことなどを理由に、1767(明和4)年、両人が死刑、竹内式部も流刑となった事件。
幕藩体制の動揺
化政文化
政治・社会思想の発達
垂加神道を学んだ竹内式部(1712-67)は、京都で若い公家たちに『日本書紀』などを講義し、尊王論を説いて追放刑となり(宝暦事件)、さらに兵法家の山県大弐(1725-67)は、『柳子新論』を著し、朝廷が政権を担当すべきであるという尊王論を説き、幕府の腐敗を批判して死罪に処せられた(明和事件)。