景帝(漢) (劉啓)(
B.C.188〜B.C.141)
前漢第6代皇帝(在位紀元前157〜紀元前141年)。文帝(漢)の子。善政をおこない、景帝と諡された。文帝とともに「文景の治」と並び称され仁政をたたえられた。紀元前154年におきた劉氏一族の諸侯王の「呉楚七国の乱」を鎮圧したのち、従来自治を認められていた諸侯国に対する統制の強化に成功した。武帝(漢)の父。
景帝(漢)
前漢皇帝一覧
前漢の歴代皇帝一覧
代 | 廟号 | 姓諱 | 父 | 母 | 在位 | 備考 | |
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1 | 高祖(漢) | 劉邦 | 劉太公 | 劉媼 | 紀元前202年 | 紀元前195年 | |
2 | 恵帝(漢) | 劉盈 | 高祖(漢) | 高后(呂雉) | 紀元前195年 | 紀元前188年 | |
3 | 少帝恭 | 劉恭 | 恵帝(漢) | 後宮(不明) | 紀元前188年 | 紀元前184年 | 恵帝崩御後、嗣子がいなかったため、呂太后(呂雉)の支持を得て即位。生母は(呂雉)が殺害。 |
4 | 少帝弘 | 劉弘 | 恵帝(漢) | 後宮 | 紀元前184年 | 紀元前180年 | 少帝恭の弟。恵帝の実子ではないといわれるが真相は不明。 |
5 | 文帝(漢) | 劉恒 | 高祖(漢) | 薄氏 | 紀元前180年 | 紀元前157年 | 紀元前180年に呂雉が崩御すると呂氏一族は周勃、陳平ら建国の元勲、および高祖の孫である斉王劉襄、朱虚侯劉章による政変で誅滅され、劉恒が新皇帝として擁立された。 |
6 | 景帝(漢) | 劉啓 | 文帝(漢) | 孝文皇后 | 紀元前157年 | 紀元前141年 | 中央集権体制に反発した諸侯王らによる呉楚七国の乱。 |
7 | 武帝(漢) | 劉徹 | 景帝(漢) | 王氏 | 紀元前141年 | 紀元前87年 | |
8 | 昭帝(漢) | 劉弗陵 | 武帝(漢) | 趙婕妤 | 紀元前87年 | 紀元前74年 | |
9 | 昌邑王賀 | 劉賀 | 劉髆 | 不明 | 紀元前74年 | 紀元前74年 | 在位わずかに27日であったため、通例としては歴代皇帝の序列から外される。 |
10 | 宣帝(漢) | 劉詢 | 劉進 | 王氏 | 紀元前74年 | 紀元前49年 | 民間に育つが霍光に擁立され即位。後世、後漢光武帝により前漢中興の祖とされ中宗の廟号を贈られる。法家主義。 |
11 | 元帝(漢) | 劉奭 | 宣帝(漢) | 許皇后 | 紀元前49年 | 紀元前33年 | 儒教重視。宦官による専断。 |
12 | 成帝(漢) | 劉驁 | 元帝(漢) | 孝元皇后(王政君) | 紀元前33年 | 紀元前7年 | 宣帝以来の宦官勢力弱体化に成功したが、外戚勢力、生母・孝元皇太后(王政君)の実家・王一族が深く朝政に関与し、後の王莽による簒奪の要因となる。 |
13 | 哀帝(漢) | 劉欣 | 劉康(成帝の異母弟) | 丁姫 | 紀元前7年 | 紀元前1年 | 祖母の傅氏と生母の丁氏が孝成皇后に賄賂を贈り、18歳の時に伯父・成帝の皇太子となり、成帝が崩御すると孝成皇太后の後楯で1即位する。 |
14 | 平帝(漢) | 劉衎 | 劉興 | 衛姫 | 紀元前1年 | 5年 | 従兄の哀帝の崩御にともない、皇帝の璽綬を董賢から奪った王莽らによって9歳で皇帝に即位する。即位当初から王莽ら王一族が権力を握る。 |
15 | 孺子嬰 | 劉嬰 | 劉顕 | 不明 | 5年 | 8年 | 摂皇帝王莽の傀儡として皇太子の位にとどめられ、帝位には即かなかったが、一般に「前漢最後の皇帝」として歴代に名を連ねる。 |