三国同盟 未回収のイタリア イタリアの統一 イタリア統一戦争 ドイツの統一 プロイセン=オーストリア戦争 イタリアとドイツの統一地図
イタリアとドイツの統一地図 ©世界の歴史まっぷ

未回収のイタリア


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未回収のイタリア Italia irredenta
1870年のイタリア統一時に獲得できなかったトリエステ・南チロルなどのイタリア人居住地域を指した呼称。イタリアはこの地域をめぐってオーストリアと対立し、三国同盟は空洞化した。

未回収のイタリア

  • 1870年以後もオーストリア領に残った、トリエステ・南チロルなどイタリア系住民の多い地域を指した呼称。1870年代後半から、反オーストリア意識を持つ共和派と民主派が「未回収のイタリア」ということばを使い始めた。
  • 1870年の全土統一後、イタリア人居住地のなかでオーストリア領に残ったトリエステ・南チロルなどに対するイタリア側の呼称。
  • イタリア統一時に獲得できなかったイタリア人居住地域。イタリアはこの獲得を目指して第一次世界大戦に参戦した。
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欧米における近代国民国家の発展

ヨーロッパの再編

イタリアの統一
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内外の条件を整えたサルデーニャは1859年オーストリアと開戦し(イタリア統一戦争)、マジェンタ=ソルフェリーノの戦いに勝利したので、しだいにナポレオン3世は自国の南に大国が登場する危機を感じ、戦いの途中でオーストリアと単独で講和を結んだ(ヴィラフランカの講和 Villafranca)。このためサルデーニャはロンバルディア Lombardia しか併合できず、ヴェネツィアは依然としてオーストリアに残ることになった。60年カヴールはナポレオン3世と交渉し、サヴォイア・ニースを割譲するかわりにサルデーニャによる中部イタリアの併合を認めさせた。

イタリア南部ではカヴールの支援をうけた青年イタリアに属するガリバルディ Garibaldi (1807〜82)が赤シャツ隊(千人隊)を率いてシチリアに上陸し、さらに進撃してイタリア半島南部を占領し、ローマをうかがう情勢となった。この動きに危機を察し、共和主義の浸透に警戒心を持つカヴールはさまざまな干渉をおこなってその進路を妨害した。急遽南下を急いだヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の軍隊はモンテクローチェでガリバルディと会見して占領地をサルデーニャ王に献上させた。こうしてトリノを首都とし、ヴェネツィア・教皇領をのぞくイタリア王国が1861年3月成立した。その後ヴェネツィアは1866年のプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)に参戦することで、教皇領は70年のプロイセン=フランス戦争の際に王国に編入された。ローマ教皇はこれに反発して「ヴァチカンの囚人」と称して対立を続けた。その他、トリエステ・南チロル(トレンティーノ)・イストリア・ダルマティアなど「未回収のイタリア」 Italia irredenta と呼ばれるイタリア人居住地域の回復をめざす領土問題が、20世紀に入っても継続した。

帝国主義とアジアの民族運動

世界分割と列強対立

同盟外交の展開と列強の二極分化
三国協商 第一次世界大戦前の国際関係図 露仏同盟
第一次世界大戦前の国際関係図 ©世界の歴史まっぷ

ドイツは、1906年と08年に艦隊法を改正し、ドレッドノート型の巨大戦艦を建造したイギリスを追走した。一方、日露戦争に敗れたロシアは弱体化が明らかになり、中央アジアでの権益問題を協議するためイギリスと交渉し、1907年英露協商が結ばれた。こうして、露仏同盟・英仏協商・英露協商をとおして英・仏・露の間に三国協商という同盟が成立し、独・墺・伊の三国同盟と対立した。しかし、三国同盟の一員であったイタリアは「 未回収のイタリア」をめぐってオーストリアと対立し、しだいにフランスに対する敵視政策を改めていった。両国はチュニジアにおけるフランスの、リビアにおけるイタリアの優位を承認したうえで、三国同盟が更新された1902年には、たがいの中立を約束した穏やかな合意にいたった。

その結果、ドイツは信頼できる唯一の同盟国オーストリアとの結束を強めていった。こうして、列強はイギリスとドイツをそれぞれの中心とする二つの陣営にわかれ、英独間の軍縮交渉が不調に終わった1910年代には、たがいに軍備拡大を競い合いつつ力の均衡を保つという「武装した平和」の状態に入った。

二つの世界大戦

第一次世界大戦とロシア革命

戦時秘密外交

戦争が長期の総力戦になるなかで、両陣営とも内部の結束を固め、中立国を味方に引き入れるために戦後の領土の再分配を決めた条約を秘密のうちに結んだ。そのころには、国家間の対立する利害を調整する外交交渉は、議会や世論の動向に左右されるのはよくないという考え方が支配的であったのである(秘密外交)。はじめ中立の立場にあったイタリアは領土問題でオーストリアと対立していたが、イギリスなどがトリエステなどのいわゆる「未回収のイタリア」の領有を約束すると(ロンドン秘密条約)、1915年5月イタリアはオーストリアに宣戦布告した。

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51.イタリア・ドイツの統一

イタリアとドイツの統一運動年表
イタリアとドイツの統一運動年表 ©世界の歴史まっぷ

1. イタリアの統一

イタリアはウィーン会議ヴェネツィア・ロンバルディアをオーストリアに領有され、統一にはオーストリア勢力の排除が大きな課題となった。1820年代、カルボナリが各地で革命運動を起こしたが弾圧された(カルボナリの反乱)。1831年、マッツィーニが政治結社「青年イタリア」を結成し統一運動の中心勢力となった。「青年イタリア」は1849年にローマ共和国を建国したが、フランスの干渉で鎮圧され、運動は挫折した。その後、サルデーニャ王権による統一事業が推進され、国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に登用された首相カヴールは近代化に努めた。

カヴールは統一実現には列国の援助が必要だと判断し、ナポレオン3世とプロンビエールの密約を結び、1859年、オーストリアに宣戦しイタリア統一戦争をおこし、ロンバルディアを獲得した。翌60年にはサヴォイア・ニースをフランスに譲るかわりに支持をとりつけ、中部イタリアを併合した。一方、ガリバルディは赤シャツ隊で知られる義勇軍を率いて両シチリア王国を占領し、これをサルデーニャ王に献上したので、1861年、イタリア王国が成立した。しかし、まだオーストリア領やフランスの影響下にある領土が多く残されていた。イタリア王国はプロイセン=オーストリア戦争やプロイセン=フランス戦争に乗じ、ヴェネツィアを併合し、ローマ教皇領を占領した。それでもイタリアには「未回収のイタリア」といわれるトリエステや南チロルが残され、イタリア外交の課題となった。また豊かな北部と貧しい南部は経済も文化も異質で、南北の格差と政治の不安定がイタリアのかかえる難題となった。

61.列強の国際対立の激化

61.列強の国際対立の激化
61.列強の国際対立の激化流れ図 ©世界の歴史まっぷ

三国協商の成立とバルカン半島の緊張

ロシアは日露戦争で東アジアでの南下政策を日本に阻止されたので、再びバルカン方面への進出に転じ、ドイツ・オーストリアと衝突するようになった。この結果、ロシアとイギリスは、イランにおける権益を調整して和解し、1907年に英露協商が成立した。この結果、イギリス・フランス・ロシアからなる三国協商が成立し、ドイツ包囲体制が確立された。イタリアは三国同盟の一員であったが、「未回収のイタリア」をめぐってオーストリアと対立するようになり、フランスに接近した。この結果、三国同盟の実態は、ドイツ・オーストリア同盟に近くなり、ドイツは信頼できる唯一の同盟国オーストリアの安定を重視した。

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