李淵 A.D.566〜A.D.635
唐(王朝)初代皇帝(在位618年6月18日 - 626年9月4日)。姓諱:李淵。廟号:高祖。
隋末の混乱の中で太原で挙兵し、長安を落として根拠地とした。そこで隋(王朝)恭帝侑を傀儡として立て、禅譲により唐を建国した。李淵は在位9年の間王世充などの群雄勢力と戦い、また律令を整備した。626年に太宗(李世民)に譲位し、太宗が残存の群雄勢力を一掃して唐(王朝)天下統一を果たした。
李淵
混乱に乗じて唐王朝を開く
隋で出世し、煬帝の治世末の混乱期に挙兵。中央アジアの突厥の援助で首都長安を占領。煬帝の孫・恭帝を擁立し、煬帝死後、恭帝に禅譲させて唐王朝を創始。
来歴
出自
李淵の一族の出自は史書では、五胡十六国時代の西涼の武昭王(李暠)の末裔で、隴西郡成紀県を本貫とする隴西李氏の漢民族とされる。
李淵の一族は大野(だいや)氏という胡姓を持つが、学説では「実際は鮮卑系の出自で本来の姓も大野氏であり、中原の支配権を正当化するために自身が漢民族の末裔であることを主張した」あるいは「武川鎮出身で鮮卑国粋主義復興の風潮が強かったから、元は漢人だったのが鮮卑化した」といった説が主流である。
李淵は北周の唐国公・安州総管を務めた仁公李昞の子として生まれた。その出自である隴西李氏は北周の八柱国の家系で、かつて北魏においては皇后を出す資格のある家柄の一つとして重んじられた北朝の名門だった。李淵が文帝(隋)の信任を得るきっかけとなったのは、その独孤皇后が李淵の叔母にあたることによる。
隋(王朝)唐公
李淵はまず隋(王朝)千牛供身となり、譙隴二州刺史・岐州刺史・滎陽(鄭州)楼煩二郡太守・殿内少監・衛尉少卿などを歴任した。
文帝(隋)の後に煬帝が立って高句麗遠征を開始すると、李淵は懐遠鎮で兵站を監督した。やがて楊玄感の乱が起こると弘化留守となり、関右の諸軍を統率して楊玄感の進軍を防いだ。
615年に山西 河東慰撫大使に任じられると、龍門の母端兒の乱を掃討、また絳州の柴保昌を討伐した。突厥が隋(王朝)辺境を侵すと、馬邑(朔城)太守の王仁恭とともに突厥軍を撃退した。617年には太原留守に任じられた。
次子の李世民や晋陽令の劉文静らの使嗾により、隋に対する反乱を決意。6月に諸郡に檄を飛ばして起兵し、一気に軍を南下させ、11月には長安(当時は大興城)を陥れた。長安の留守をしていた代王楊侑を擁立して隋(王朝)恭帝(恭帝侑)とした。
即位後
618年5月、煬帝が殺されたことを知ると、恭帝侑から禅譲を受けて自ら皇帝となった。
この頃洛陽でも隋(王朝)武将だった王世充が即位して鄭を建国、河北では群盗の竇建徳が一大勢力を築き、長江以南では南朝の梁の末裔である蕭銑が梁朝再興、群雄割拠の様相を呈していた。その後李世民らの活躍もあり、626年の退位までに梁師都以外の群雄を平らげるまでになった。
その後、統一戦に著しい戦功を上げた秦王李世民に次の皇帝を期待する秦王配下の者たちが、皇太子の座を狙って策動するようになった。これに対して皇太子李建成と斉王李元吉はこれを止めるために高祖李淵に世民の謀士である房玄齢と杜如晦を引き離すよう進言した。
しかし李世民は李建成と李元吉が画策した先制攻撃の情報を入手すると、626年の玄武門の変で李建成と李元吉を殺害した。高祖李淵はこれを受けて直ちに李世民に譲位することに同意して太上皇となり隠退をせまられた。その後は政治とは離れた環境で静かに暮らし635年、71歳で崩御した。
対仏教政策
高祖は唐朝の創業当初、仏教に対してはその存在を容認する立場を取り、また法会も行なっている。また、唐(王朝)正統性を擁護するような慧化尼と衛元嵩の予言詩を隋からの受禅に利用したことも『大唐創業起居注』の中に見える。武徳3年(620年)には、1月・5月・9月の三長斎月に刑死を執行せず、また殺生の禁断を命ずるほど、仏教の不殺生戒の周知に努めていた。
しかし翌武徳4年(621年)になると隋代に建立された諸寺院を廃止し、洛陽城内には名徳ある僧30名、尼30名のみをとどめ、その他は還俗させている。
さらに武徳9年(626年)には太史令傅奕の十一箇条の上奏文の内容に基づいて、高祖は仏教と道教をともに廃毀する詔を発した。それは40余年前に武帝(北周)が衛元嵩の上表文をもとに仏道二教を廃したのを彷彿とさせる措置だった。
その詔によれば、徳行ある僧尼や道士女冠は大寺や大観に住せしめて、その他の者は還俗させ、長安には寺3か所、道観2か所を残し、天下の諸州にも各1か所を残して、その他はことごとくく廃毀させることを求めた。しかし同年6月4日の玄武門の変によって高祖は退位したため、詔の内容が実施に移されることはなかった。
諡号
崩御後に大武皇帝と贈られたが、後に高宗により神尭皇帝に改められ(674年)、続いて玄宗により神堯大聖皇帝(749年)、さらに同じく玄宗により神堯大聖大光孝皇帝(754年)と改称された。
皇后子女
皇后
- 竇皇后(没後に追封)
- 万貴妃
- 尹徳妃
- 宇文昭儀
- 嬪 莫麗芳、孫嬪、崔商珪、楊嬪、小楊嬪
- 郭婕妤、劉婕妤、薛婕妤
- 張美人、楊美人、王才人、魯才人
- 宝林張寵則、柳宝林、張氏
子女
男子
- 太子 李建成 – 母 竇皇后(暗殺後、高宗のときはじめ息王を封贈、のち隠太子を追贈)
- 秦王 李世民 – 母 竇皇后(李建成暗殺後に立太子、高祖退位をうけて即位、廟号は太宗)
- 李玄霸 – 母 竇皇后(高祖即位前に早世、高宗のとき衛王を封贈)
- 斉王 李元吉 – 母 竇皇后(暗殺後、高宗のときはじめ海陵郡王を封贈、のち巣王を追贈)
- 楚王 李智雲 – 母 万貴妃
- 荊王 李元景 – 母 莫嬪
- 漢王 李元昌 – 母 孫嬪
- 酆王 李元亨 – 母 尹徳妃
- 周王 李元方 – 母 張婕妤
- 徐王 李元礼 – 母 郭婕妤
- 韓王 李元嘉 – 母 宇文昭儀
- 彭王 李元則 – 母 王才人
- 鄭王 李元懿 – 母 張宝林
- 霍王 李元軌 – 母 張美人
- 虢王 李鳳 – 母 楊美人
- 道王 李元慶 – 母 劉婕妤
- 鄧王 李元裕 – 母 崔嬪
- 舒王 李元名 – 母 小楊嬪
- 魯王 李霊夔 – 母 宇文昭儀
- 江王 李元祥 – 母 楊嬪
- 密王 李元曉 – 母 魯才人
- 滕王 李元嬰 – 母 柳宝林
女子
- 長沙公主 -(母不詳)馮少師に降嫁
- 襄陽公主 -(母不詳)竇誕に降嫁
- 平陽公主 – 母 竇皇后、柴紹に降嫁
- 高密公主 -(母不詳)はじめ琅邪公主、のち高密公主に改封、はじめ長孫孝政に降嫁、のち段綸に再嫁
- 長広公主 -(母不詳)はじめ桂陽公主、のち長広公主に改封、はじめ趙慈景に降嫁、死別後楊師道に再嫁
- 長沙公主 -(母不詳)はじめ万春公主、のち長沙公主に改封、豆懐譲に降嫁
- 房陵公主 -(母不詳)はじめ永嘉公主、のち房陵公主に改封、はじめ竇奉節に降嫁、のち賀蘭僧伽に再嫁
- 九江公主 -(母不詳)執失思力に降嫁
- 廬陵公主 -(母不詳)喬師望に降嫁
- 南昌公主 -(母不詳)蘇勗に降嫁
- 安平公主 -(母不詳)楊思敬に降嫁
- 淮南公主 -(母不詳)封道言に降嫁
- 真定公主 -(母不詳)崔恭礼に降嫁
- 衡陽公主 -(母不詳)阿史那社爾に降嫁
- 丹陽公主 -(母不詳)薛万徹に降嫁
- 臨海公主 -(母不詳)裴律師に降嫁
- 館陶公主 -(母不詳)崔宣慶に降嫁
- 安定公主 -(母不詳、武則天養女)はじめ千金公主、のち安定公主に改封、はじめ温挺に降嫁、死別後鄭敬玄に再嫁
- 常楽公主 -(母不詳)趙瓌に降嫁
内陸アジア世界の変遷
遊牧民とオアシス民の活動
内陸アジアの新動向
583年、突厥は内紛によって、モンゴル高原を本拠地とする東突厥と、中央アジアを本拠地とする西突厥に分裂した。
隋との力関係で劣勢となった東突厥は隋(王朝)に服属したが、隋が滅びると勢力を回復し、連年のように唐に入寇した。しかし、やがて内紛と唐(王朝)攻撃により、630年に東突厥国家(第一可汗国)は崩壊する。以後、東突厥は唐(王朝)羈縻支配下に入ったが、682年にいたって唐(王朝)支配下から離脱し、ふたたびモンゴル高原に強大な国家を樹立した。これを第二可汗国と呼ぶ。
- 内陸アジアの新動向 – 世界の歴史まっぷ
東アジア世界の形成と発展
東アジア文化圏の形成
唐の建国と発展
隋末の混乱のなか、各地に蜂起した群雄を抑えて、中国を再統一したのは、太原(現山西省)で挙兵した李淵・李世民の父子であった。
李淵(高祖(唐))、李世民はいち早く関中を占拠すると唐(618〜907)を建国し、長安を都と定めた。
高祖(唐)の時代、各地に割拠した群雄(河北の竇建徳、王世充など)はかなりの勢力を保っていたが、次子李世民の活躍によってしだいに平定されていった。
李淵が登場する作品
「隋唐演義」
李世民や李元覇らの父。楊堅(文帝)の功臣で皇太子派。楊広に嫌われ、刺客を差し向けられたところを秦瓊が救った。朝廷の命令を受けて単雄信の一族を殺したため、単雄信にとって李氏が不倶戴天の敵となる。
隋唐演義 集いし46人の英雄と滅びゆく帝国 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ