東大寺金剛力士立像
東大寺金剛力士立像 口をへの字に結んだ吽形像:定覚/湛慶・口を開いた阿形像:運慶/快慶(画像出典:山川詳説日本史図録)

東大寺金剛力士立像


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東大寺金剛力士立像 とうだいじこんごうりきしりつぞう 国宝

重源ちょうげんの東大寺復興の一環として再建された、南大門の仁王。口を開いた阿形・口をへの字に結んだ吽形があり、運慶・快慶・定覚・湛慶の慶派一門により、1203年に69日間で制作された寄木造(部材数約3000)の傑作。1991年の解体修理の際、阿形像の金剛杵から墨書銘がみつかり、吽形は定覚じょうかく湛慶たんけい、阿形は運慶と快慶が主に担当したことが判明した。

東大寺金剛力士立像

国宝プロフィール

運慶・快慶・定覚・湛慶 東大寺南大門 「金剛力士立像」 吽形 阿形
1203(建仁3)年 木造 彩色 像高 吽形:842.3㎝ 阿形:836.3㎝ 東大寺 奈良

東大寺南大門に安置される吽形と阿形の2体の金剛力士立像。鎌倉時代の初め、南都焼討ち後の東大寺復興の際に、運慶ら慶派一門によって造像された。日本の金剛力士像を代表する寄木造の巨像。

金剛力士立像とは

奈良時代に創建された東大寺は、1180(治承4)年に平重衡たいらのしげひらによる南部(奈良)焼討ちで大仏殿をはじめ多くの堂宇が消失し、南大門も失われました。19年後に再建された南大門に、大仏(盧舎那仏)の守護神として安置されたのが、運慶作の2体の巨大な金剛力士立像です。

金剛力士は仏法を守護する神。古代インドの武器に由来する「金剛杵こんごうしょ」と言う法具を持ち、激しい忿怒ふんぬの相で表現されます。寺院の門に一対で安置され、仏敵が寺内に侵入するのを防ぐ役割を担っています。

仁王(二王)とも呼ばれる金剛力士は、向かって右が口を開いた阿形像、左が口をへの字に結んだ吽形像であるのが普通ですが、東大寺南大門では阿吽が左右逆になっており、しかも門の内側に向かい合わせに安置されているのが大きな特徴です。この左右逆の配置をはじめ、手足の構えや金剛杵の持ち方などは、日本に伝来した中国宋代の版画中の金剛力士像に一致するものが見つかっており、南大門と同じく宋文化の影響を受けていることが指摘されています。

従来、各像の作風から吽形が運慶、阿形は快慶の作とされてきましたが、昭和から平成にかけて行われた解体修理の際、像内から発見された文書により吽形は定覚じょうかく湛慶たんけい、阿形は運慶と快慶が主に担当したことが判明しました。運慶は、当時勢力を急拡大していた南部仏師の一派「慶派」の工房を主宰する棟梁であったため、製作総指揮者として2体の造像の全体を統括したものと考えられます。

両像は1203(建仁3)年7月に造立が始まり、わずか69日という驚異的なスピードで造り上げられました。像高は優に8メートルを超え、修理の際に計った重量は阿形が6.7トン、吽形が6.9トンでした。

造像時は、平安時代が終焉し、鎌倉幕府の施政が始まったころです。台頭してきた武士による新しい時代の開始を告げるかのような力強い造形と迫真的なリアリズムは、時代の清新な息吹を敏感に感じとった運慶と、そこに集う一門の仏師たちが、エネルギーを集結して成し遂げた仏教彫刻の革新を今に伝えています。

東大寺金剛力士立像
東大寺金剛力士立像 口をへの字に結んだ吽形像:定覚/湛慶・口を開いた阿形像:運慶/快慶(画像出典:山川詳説日本史図録)

東大寺南大門金剛力士像:重源ちょうげんの東大寺復興の一環として再建された、南大門の仁王。阿形・吽形があり、運慶・快慶・定覚・湛慶の慶派一門により、1203年に69日間で制作された寄木造(部材数約3000)の傑作。1991年の解体修理の際、阿形像の金剛杵から墨書銘がみつかっている。

参考 山川 詳説世界史図録

東大寺文化財


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