松平定信
松平定信自画像(松平定信画/鎮国守国神社蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

松平定信


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松平定信 まつだいらさだのぶ( A.D.1758〜A.D.1829)

江戸時代後期の大名。田安家の宗武の子で8代将軍吉宗の孫。白河松平家の養子となり、白河藩主として天明の飢饉を乗り切って藩政を立て直し、名君として注目を集めた。老中に就任すると、田沼意次のあとをうけて、幕政の建て直しをはかり、寛政の改革を断行。多くの反対にあい、1793年老中を辞し、以後は藩政に専念。主著に『花月草紙』『宇下人言』『修行録』『国本論』がある。

松平定信

江戸時代後期の大名。幼名は賢丸。号は楽翁、風月翁、花月翁。田安宗武の第3子で、8代将軍徳川吉宗の孫。安永3 (1774) 年白河藩主松平定邦の養子となり、天明3 (1783) 年家督を継ぎ、飢饉により崩壊に瀕した藩財政を建て直し名君と称された。同7年老中首座となり、田沼意次のあとをうけて、幕政の建て直しをはかり、寛政の改革を断行したが、多くの反対にあい、寛政5 (1793) 年老中を辞し、以後は藩政に専念し、著作に従事した。朱子学を好み、老中時代には、柴野栗山らを登用して、「寛政異学の禁」を発した。主著に『花月草紙』や『宇下人言』ならびに『修行録』 (1822) 『国本論』 (1781) がある。

参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 プラス世界各国要覧 2018

「田沼恋しき」といわれた清廉の老中

松平定信が白河藩主時代、天明の大飢饉が襲う。定信は先頭に立って藩の倹約と窮民救済に努め、被害が著しかった地方でありながら目覚ましい成果をあげた。白河藩政の功績が認められ、11代家斉の補佐役として老中首座に就任した。その後、田沼時代の重商政策を転換、重農政策と商業資本の抑圧の方針を掲げ、幕府財政温存のための質素倹約、綱紀粛正、風紀の取り締まりを断行した。定信の政治は円沼時代に腐敗した幕政を立て直した偉業として評価が高い。ただ、清廉潔白に過ぎて規制強化にも陥りやすく、幕府内外の不満を生み、将軍家斉とも不和になり失脚した。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

幕藩体制の動揺

幕政の改革

寛政の改革

寛政の改革一覧

特色享保の改革を理想とした復古理想主義
②農村の復興と都市政策の強化
③士風の引き締め、幕府権威の再建
政策農村復興囲米・社倉・義倉を設置(1789発令)
出稼ぎ制限、旧里帰農令(1790)
都市勘定所御用達の登用(江戸の豪商10名)
江戸石川島人足寄場に無宿人を収容(1790)
七分積金の制度化(1791)
財政倹約令(1787)
棄捐令(1789、旗本・御家人の救済)
思想
出版統制
寛政異学の禁(1790)寛政の三博士の登用
出版統制令(1790)
林子平への弾圧:『三国通覧図説』『海国兵談』(1792)
・洒落本作者の山東京伝、黄表紙作者の恋川春町、出版元の蔦屋重三郎らを弾圧
その他海防政策:ラクスマンの来航を機に、幕府は諸藩に江戸湾・蝦夷地の海防の強化を命令(1792〜93)
結果一時的幕政が引き締められ、厳しい統制・倹約で、民衆の反発を招く
尊号一件(1789〜93、定信は天皇の実父への尊号宣下を拒否)→ 幕府と朝廷の協調関係崩壊
1793、信貞は家斉と対立し退陣(老中在職6年)
参考:山川 詳説日本史図録

田沼意次が失脚したのち、田沼派の人々と白河藩主松平定信(1758〜1829)を老中に据えようとする三家・三卿との間で激しい権力闘争が繰り広げられ、これに決着をつけたのは1787(天明7)年5月の江戸、大坂をはじめとする全国30余りの都市での打ちこわしである(天明の打ちこわし)。とくに江戸では、市中の米屋などへの打ちこわしが5日間も続く大騒動になり、政府に強い衝撃を与えた。この結果、田沼派が失脚して6月に松平定信が老中に就任し、寛政の改革を断行した。翌年、15歳の将軍家斉(1773〜1841)の補佐にもなって改革政治を推進した。杉田玄白が「もし今度の騒動なくば御政事改まるまじなど申す人もはべり」(『後見草』)と指摘したように、打ちこわしが引き金となって幕府に政変がおこり、寛政の改革が断行されたことが重要である。定信政権は「打ちこわしが生んだ政権」であり寛政の改革は「打ちこわしが生んだ改革」ともいうことができる。

定信は、三卿の一つ田安家の徳川宗武(1715〜71)の子で8代将軍吉宗の孫として生まれ、白河松平家へ養子に入り、白河藩主として天明の飢饉を乗り切って藩政を立て直し、名君として注目を集めた。

誕生から老中在任中までの自叙伝『宇下人言うげのひとこと』、随筆『花月草紙』を著し、古い書画や器物を模写させた『集古十種しゅうこじっしゅ』を編集するなど、和漢の学問に通じた知識人であったので、その周囲に文化人が集まった。

老中に就任すると、祖父吉宗の享保の改革を理想としてかかげ、田沼の政治を「悪政」と厳しく断罪して、否定した。寛政の改革の課題は、田沼時代に進行した深刻な内外の危機に対応しながら、幕藩体制を立て直すことにあった。

定信は、田沼派の人々を罷免・処罰して一掃し、かねて親交のあった改革派の譜代大名を老中・若年寄・側用人などに据え、さらに町奉行や勘定奉行などにも有能な人材を登用して改革の態勢をつくった。

まず直面したのは、凶作の連続による年貢収入の減少と飢饉対策のため幕府の蓄え金が底を突き、しかも100万両もの収入不足が見込まれるという、幕府財政の危機的な状況であった。この財政を再建するため、厳しい倹約令による財政緊縮政策がとられ、大名から百姓・町人にいたるまで厳しい倹約が要求された。大奥の経骰を3分の2に減らしたのみならず、朝廷にも経費の節減を求めたほど、徹底したものであった。また、住所不定で大小の刀ももてない御家人が現れるほど経済的に困窮した旗本・御家人を救済するため、1789(寛政元)年に棄捐令きえんれいが出された。

棄捐令

1789(寛政元)年、幕府は蔵米取りの旗本・御家人が1784(天明4)年以前に札差ふださしから借りた金の返済を免除(棄捐)し、それ以後の分も低利の年賦返済とした。これは事実上の借金踏み倒しであったから、夢ではないかと小躍りする者がでるほどであった。しかし、このときの棄捐の総額は118万両にものぼって札差に大打撃を与えたため、旗本らへの新規の融資が困難となり、金融の面で混乱が生じた。

しかし、このような緊縮政策では根本的な解決にならないことは明らかだった。幕府の財政基盤である農村対策として、商品経済の浸透により不安定化し、凶作・飢饉により荒廃した農村の復興策がとられた。

商業的農業や商業の展開をおしとどめるため、主穀生産を奨励し、百姓が商業に携わることを抑制した。人口が減少して耕作できない荒地の多い陸奥や北関東に対しては、江戸や他国へ奉公や出稼ぎに行くことを制限し、人口を増やすために間引きの禁止や赤子養育金の制度を設け、越後などから百姓を呼び寄せたり、あるいは飢饉などで江戸に流入した人々に旅費や補助金を与えて農村に帰ることを勧める旧里帰農令きゅうりきのうれいを出した。

さらに、荒地の再開発や農業用水の整備などをするため、幕府は公金貸付を大規模に行った。農村復興策を着実に進めるため、代官の大幅な交代と同じ代官所に長期に勤務させる体制をとった。その結果、この時期の代官には、のちに領民から顕彰けんしょうされたり、神にまつられたりした「名代官」が数多くでた。

江戸時代に代官の顕彰碑や代官を神とまつる神社などが76ヶ所あるが、寛政から文化・文政期の代官に多い。陸奥の代官寺西重次郎、常陸の代官岡田清助らが有名である。

寛政の改革は、飢饉が直接の引き金となった一揆・打ちこわしの与えた強い衝撃から始まったので、飢饉対策が重点的にとられた。飢饉の際、米価の高騰をおさえられなかったことから、「金穀の柄きんこくのへい」を幕府が握ることをめざし、江戸の両替商を中心に豪商を幕府の勘定所御用達に任命し、彼らの資金と知識や技術を活用しようとした。定信は、凶作でも飢饉にならないように食糧の備蓄をはかった。諸大名には1万石につき50石を5年間にわたり領内に備蓄させ、さらに各地に社倉・義倉を設けさせた(囲米かこいまい)。

囲米:社倉は住民らが分相応に穀物や金を出し合って備蓄し、義倉は富裕者が慈善として搬出した穀物や金を備蓄するもので、国家や領主が行う常平倉とともに三倉と呼ばれ、凶作・飢饉に備えて食糧などを備蓄する施設である。

幕領農村には郷蔵ごうぐら、直轄都市にも米を貯蔵する蔵を設けたが、江戸では町入用(1785〜89年の平均で1年に15万5140両)の節約分(3万7000両)の70%を積み立てる七分積金しちぶつみきんの制度をつくり、江戸町会所を設けて、米と金を蓄えた。蓄えた米や金は、飢饉、災害、風邪の流行などのときに困窮した貧民の救済にあてられ、打ちこわしなどの騒動を未然に防ぐことに使われた。

田沼時代に華やかな消費生活が生まれた都市に対しては、華美な風俗や贅沢の取締りがかつてない厳しさで行われた。しかし、都市と農村の関係が深まった段階では、農村を視野に入れた都市政策が必要になった。とくに百姓が都市に流出したため、農業人口が減って農村が荒廃し、都市では下層住民が増加して不安定な構造となり、この状態の解決が求められた。旧里帰農令はそのための政策であり、飢饉で農村から都市に入り込んで野非人のひにんと呼ばれた市中を流浪する無宿人対策が、都市の治安の上からも重視された。

野非人:飢饉などにより乞食となって江戸市中などを浮浪する者の名称で、狩込みという浮浪者の取締りにより、もとの在所に戻るか、非人の組織に加わるかした。

身元がわかり引取り人のある者は、領主に引き渡して帰村させ、それができない無宿人のうち犯罪を犯していない者は、石川島に設けた人足寄場にんそくよせばに収容し、技術を身につけさせ、職業をもたせようとした。

思想の面では、儒学の振興を積極的にはかった。1790(寛政2)年には朱子学を正学とし、湯島聖堂の学問所で朱子学以外の学派の講義や研究をすることを禁じた寛政異学の禁が出された。幕府の教学を担った林家を強化し、のちに寛政の三博士と称された柴野栗山(1736〜1807)・尾藤二洲(1747〜1813)・岡田寒泉(1740〜1816)らの優れた儒者を儒官に登用した。また、朱子学の奨励と人材の発掘・登用のため、学問吟味という試験制度も設けられた。

民間に対しては、絵双紙類で風俗に悪影響を与えるもの、世上の噂を写本にして貸すことの禁止などを盛り込んだ出版統制令が出され、幕府政治への諷刺や批判を取り締まり、風俗の刷新がはかられた。旺盛な創作活動をしていた洒落本作者の山東京伝さんとうきょうでん(1761〜1816)や、黄表紙作者の恋川春町こいかわはるまち(1744〜89)、出版元の蔦屋重三郎(1750〜97)らが弾圧された。さらに、林子平はやししへい(1738〜93)が『三国通覧図説』『海国兵談』などで外国による日本侵攻の危険を指摘し、軍備の充実や海岸防備の強化を主張したが、都府は「奇怪異説」を説いて人心を惑わすとして版木を没収し、子平に禁錮刑を科して弾圧した。さらに朝廷と幕府の間に「尊号一件」と呼ばれる事件がおこり、緊張した関係が生まれた。

尊号一件

さまざまな公事や神事を復古的に再典し、京都御所の紫宸殿ししんでん清涼殿せいりょうでん平安時代の内裏と同じものに造営するなど、天皇権威の強化をはかっていた朝廷は.1789(寛政元)年、光格天皇(在位1780〜1817)の実父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を宣下したいと幕府に伝えた。しかし松平定信は、天皇の位につかなかった者に天皇譲位後の称号である太上天皇の尊号を贈ることは道理に合わないと反対した。朝廷は、1791(寛政3)年に参議以上の公卿に尊号宜下の可否を問い、圧倒的多数の賛成を得て、翌年、幕府に強く尊号宜下の許可を求めた。しかし、定信は要求を拒絶し、1793(寛政5)年、武家伝奏と議奏を江戸に呼んで責任を追及し処罰した。

寛政の改革は、田沼時代末期の危機的な状況を乗り切り、一時的に幕政を引き締め、幕
府財政の均衡を回復して幕府の権威を高めた。しかし、厳しい統制や倹約の強制は民衆の反発を招き、1793(寛政5)年、将軍家斉との対立もあって、定信は老中在職6年余りで退陣に追い込まれた。

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同時代の人物

ルイ16世(フランス王)(1754〜1793)

フランス王国ブルボン朝第5代、アンシャン・レジーム最後のフランス国王(在位1774年〜1792年)。アメリカ独立戦争の介入で極度に悪化した財政の改革のため、チュルゴやネッケルらの改革派を登用したが、王妃マリー=アントワネットに支持された特権身分の反対に遭い、改革は挫折。フランス革命を招いた。1792年王政は廃止され、翌年国民公会の決定により処刑された。

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