板付遺跡
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板付遺跡
福岡県福岡市博多区板付にある縄文時代晩期から弥生時代後期にかけての環濠集落跡。佐賀県唐津市の菜畑なばたけ遺跡とともに、日本最古の稲作集落跡とされる。

板付遺跡

福岡平野のほぼ中央に位置し、標高7~9mほどの台地上の環濠集落と周辺の沖積地に広がる水田跡、墓地などからなる。長径110mの断面がV字形の環濠をもつ集落跡には竪穴式居や貯蔵穴、井戸などがあり、台地下の弥生時代初期の水田跡の下の層には、さらに縄文時代晩期の水田跡が発見された。大区画の水田跡であり、木製農機具や用水路に設けられた井堰いせきなどの灌漑施設も確認された。畦の間隔から水田の1区画は400m2程度、花粉分析から畑作栽培も推定され、出土した土器の編年によって、最古の弥生文化の始まり、つまり、最古の農耕社会と捉えられている。
また、弥生時代の墓から発見された甕棺かめかんの中から青銅製の矛や剣が出土し、弥生土器に金属器がともなう初のケースで、銅剣・銅矛のほか、銅矛の鋳型、石包丁などが出土している。1976年(昭和51)に国の史跡に指定され、その後たびたび追加指定が行われている。
竪穴式住居や水田が再現され、板付遺跡弥生館では弥生時代の暮らしを体験学習できる。JR山陽新幹線ほか博多駅そばの博多駅バスターミナルから西鉄バス「板付団地第二」下車、徒歩約3分。

参考 講談社国指定史跡ガイドについて

概要

縄文時代

弥生時代の層の下層から、縄文時代早期(約9,000~6,000年前)の押型文土器が出土している。

弥生時代

佐賀県菜畑なばたけ遺跡や福岡県板付いたづけ遺跡からは、縄文時代晩期終わりころの水田跡や田に水を引くための水路の跡などが見つかっている。板付の水田は低湿地でなく微高地に立地しており、灌漑施設を備え、あぜで区画するなど、出現の当初から高い技術を用いて水田稲作を行なっていたことがわかる。木製農具を作るための石斧せきふ類や稲穂を摘むための石包丁(石包丁は、現代の包丁の役目を持つ石器ではないことに注意する必要がある)は、朝鮮半島南部の青銅器時代前期のものと極めてよく似ている。

朝鮮半島南部の青銅器時代前期の始まりはおよそ紀元前1000年紀の前半、終わりは紀元前4〜3世紀とされている。
最古の弥生土器

最古の弥生土器は、板付遺跡から出土した土器によって名付けられた板付I式土器である。これには、縄文土器の伝統を受け継いだ夜臼ゆうす式土器が伴う。これらは壺形土器・甕形土器・浅鉢形土器・高坏形土器からなるが、大半を壺形土器と甕形土器が占める。板付I式土器は壺形土器と甕形土器が2対1の割合で構成され、夜臼式土器の壺形土器と甕形土器の割合はおよそ1対2である。
それ以前の縄文土器には壺形土器はほとんど用いられていないので、弥生土器の成立とともに、壺形土器が重要な役割を担うようになったと言える。
その役割としては、種籾たねもみといった穀物などの貯蔵が考えられよう。弥生土器の成立した時点で、縄文土器の伝統を受け継いだ土器が伴っているのは、北部九州ばかりではない。
伊勢湾地方でも、この地方で最古の弥生土器である遠賀川おんががわ式土器に、縄文土器の伝統を受けて貝殻の縁などで粗い文様をつけた条痕文じょうこんもん土器が伴う。
関東地方などでは、伊勢湾地方の条痕文土器が影響を与えて弥生土器が成立するので、縄文土器の伝統は西日本に比べて根強い。縄文土器から弥生土器への変化は、地域差があり、複雑である。

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