林則徐
林則徐(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

林則徐


林則徐 りんそくじょ( A.D.1785〜A.D.1850)

清の政治家。湖広総督時代にアヘン厳禁論を奏上し、道光帝から欽差大臣に任じられた。1839年広東でアヘンの没収と廃棄などを強行し、成果をあげたがイギリスに開戦の口実を与える結果となった。40年解任されたが、のちに復帰。50年太平天国討伐を命じられ、赴任途中に病死。

林則徐

清の政治家。湖広ここう総督時代にアヘン厳禁論を奏上し、道光帝から欽差大臣に任じられた。1839年、広東カントンでアヘンの没収と廃棄などを強行し、成果をあげたがイギリスに開戦の口実を与える結果となった。40年、解任されてイリ地方に左遷されたが、のちに許されて大官に復帰した。50年、太平天国討伐を命じられ、赴任途中に病死した。

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アジア諸地域の動揺

東アジアの激動

アヘン戦争(中国の近代の起点)

イギリスの対清貿易は、本国でのの需要の増大にともなって、中国茶の輸入が急速に増大していた。産業革命で生産をのばした綿製品は中国では売れず、当初はイギリスが中国の茶を一方的に輸入し、代価を銀で支払うという完全な片貿易(イギリス側の入超)になっており、毎年イギリスから中国へ大量の銀の流出が続いていた。とくにアメリカの独立によって最大の植民地であった北米植民地を失ってからは、イギリスは中国への銀の支払いにいよいよ苦しむようになった。これを打開するためにイギリスは、18世紀末になるとインドでアヘン(阿片) を製造させ、本国の綿製品をインドに輸出してアヘンを購入し、インド産アヘンを中国に輸出して茶の代価にあてるという三角貿易を開始して事態の打開をはかった。これによりアヘン吸飲の悪習が中国社会に広まり、清朝政府のアヘン輸入・吸飲禁止令にもかかわらず、アヘンの密輸量は年をおって増加し、1830年代になると、ついに中国側がイギリスに対して入超に転じ、代価として茶だけでは足りず、逆に中国からイギリスへ大量の銀が流出するようになった 。こうした銀の大量流出は、必然的に銀価の高騰を招いたが、地丁銀制では納付すべき税額が銀価によって定められていたから、銀価の高騰は農民の負担を増大させ、その生活を圧迫していった。

このようなアヘンの吸飲や密輸入の害を憂慮した道光帝どうこうてい(位1821〜50)は、アヘンの輸入・販売・吸飲の禁絶をめざし、1838年アヘン厳禁論を唱える林則徐りんそくじょ(1785〜1850)を欽差大臣に任命して、アヘン問題の解決にあたらせた。翌年、広州に着任した林則徐は、アヘン約2万箱を没収して焼却したうえ、イギリスに対し、アヘン貿易を停止しないかぎり一般貿易をも断絶するという強硬策にふみきった。

林則徐
阿片を処分する林則徐(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

しかし、イギリスにとっては、英領インド植民地において、アヘンからの収益金がその歳入の約6分の1を占め、インド農民にもイギリス製綿製品に対する購買力を与えるなど、アヘンはすでにイギリスの世界貿易体制の不可欠の一環となっており、また、1834年にはイギリス東インド会社の中国貿易独占権が廃止され、中国に対する貿易自由化の要求がいよいよ高まっていた矢先でもあった。

そこでイギリスは、これを機会に武力によって自由貿易そのものを実現させようとして、1840年、中国に遠征軍を送ってアヘン戦争(1840〜42)をおこした。戦争は近代的兵器を有するイギリス軍の圧倒的な優勢に終始し、北上したイギリス艦隊が北京の外港である天津に迫ったため、道光帝は動揺して林則徐を罷免し、外交交渉による停戦をはかろうとした。この結果、1842年に南京条約が締結されて、アヘン戦争は終結した。この間、1841年に広州郊外の三元里さんげんりにおいて、イギリス兵の暴行に憤激した民衆が、平英団へいえいだんという武装自衛団を組織してイギリス軍を攻撃するという事件(三元里事件)がおきた。これは中国民衆の民族主義的な意識の芽ばえと、その後の民族主義的な排外・抵抗運動の出発点として注目される。

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