武帝(漢)
B.C.141〜B.C.87
前漢の第7代皇帝(在位前141〜前87)。中央集権体制を確立し漢帝国の最盛期を現出。土木事業で国内整備をすすめ、外征に力を入れ、匈奴を北方へ退けた。
武帝(漢)
匈奴に対して攻勢に転じる
前漢の第7代皇帝で、外征ではそれまでの消極策に変わり積極策をとった。西南夷、南越、東越、朝鮮などを懐柔あるいは征服し、新郡を設置して領土を拡張。匈奴に対しても攻勢をとり、まず西方の大月氏と同盟を結んで匈奴を東西から挟撃しようと、郎(宮中の門衛)の張騫を派遣する。それが不首尾に終わると、単独で匈奴にあたる決意を固め、外戚の衛青、霍去病および李広利などを将軍に任じて征伐にあたらせた。
かくして匈奴を漠北に追いやると、河西回廊に武威、張掖、酒泉、敦煌の4郡を設け、民を募って移住させた。
匈奴を撃退するも財政は窮乏
父・景帝(漢)を継ぎ、16歳で前漢7代皇帝に即位。以後約50年在位した。景帝(漢)が地方諸侯を抑えた政策を踏襲し、中央集権制を強め、実質的な郡県制へ移行した。そして各地で灌漑事業や治水工事を積極的に行った。また、儒教を官学とし、年号を初めて用い「建元」とした。
武帝は外交においても積極的だった。しかし中央アジアへの張騫の派遣は失敗した。遊牧民族・大月氏と結んで匈奴を討とうと図ったのだが、到着する前に張騫は匈奴に捕らえられてしまう。張騫は10年後に脱出して大月氏と交渉したが、同盟は成立しなかった。そこで武帝は、霍去病、李広利らを将軍に、匈奴征討部隊を送り込んだ。遠征は数次に渡り、延べ数10万の兵を動員した結果、匈奴撃退に成功した。南方へも派兵。南越、東越、西南夷を討って領土を広げた。東方では衛氏朝鮮を滅ぼした。
しかし土木事業と拡張政策で財政は窮乏。塩、鉄、酒を専売とし、新機軸の財政策を打ち出すが実らなかった。
武帝の命によって大月氏に向かう張騫。張騫が中央アジア事情を中国に伝えたことで、東西貿易が盛んになった。
武帝が、万里の長城西端に築いた関所「玉門関」。シルクロードの重要な拠点となった。
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武帝の政治
武帝(漢)は、諸侯に対して推恩の令を発布してその勢力をいっそう弱め、また地方長官の推薦による官吏の任用をはかり(郷挙里選)、董仲舒の提案によって儒学が官学とされ、礼と徳の思想による社会秩序の安定化がめざされた。
さらにはじめて元号を定めるなど、皇帝の権力をいっそう強化して中央集権体制を確立した。こうして武帝の時代に漢帝国の最盛期が出現した。
武帝は、対外的には祖父の文帝(漢)、父の景帝(漢)2代の努力によって蓄積された国家財政の充実を背景に、積極的な軍事行動をおこなった。
彼は北方の匈奴に対しては、劉邦以来の消極策を改め、将軍の衛青・霍去病らに命じて数回にわたって攻撃を加え(紀元前129以降)、苦戦の末に匈奴をゴビ砂漠の北に追いやった。こうしてオルドスや河西地方(甘粛省)にも勢力をのばすことができた漢帝国は、オルドスに朔方郡、河西地方に敦煌郡など4郡をおき、軍隊を駐屯させてその侵入に備えた。
また、武帝は即位後まもなく(紀元前139頃)張騫を西方の大月氏のもとに派遣し、匈奴を挟み撃ちにする約束をとりつけようとはかった。結局のところ、大月氏側にその意志がなかったため、その目的は果たせなかったが、これを契機に西域の事情が知られるようになった。
そののち武帝は張騫を烏孫に使者として派遣したり、服属を拒否した大宛(フェルガナ)に遠征したりして、タリム盆地の諸都市にまで支配を広げた。
南方では、秦の滅亡に乗じて自立した南越を征服し(紀元前111)、ベトナム北部を支配下に入れ、南海など9郡をおいた。
また東北では、衛氏朝鮮を滅ぼして(紀元前108年)、朝鮮北部に楽浪・真番・臨屯・玄菟の4郡をおき直轄地とした。
しかしながら、度重なる外征によって、豊かであった国家財政は苦しくなった。そこで武帝は新たな貨幣(五銖銭)を鋳造し、塩・鉄・酒の専売をおこない、均輸法・平準法を実施するとともに商人に重税を課し、官位・官職を売り、罪人でも金銭をおさめるものは罰を免除するなどの政策を実施して財政の立て直しをはかった。その結果、民衆は重い負担に苦しみ、社会不安はしだいに激しくなった。
均輸法・平準法
- 均輸法は、地方に均輸官をおき、政府が必要とする物品の購入と中央への輸送を担当させたもので、これによって商人の中間利潤を防ぎ国家財政の充実をはかった。(紀元前115施行)
- 平準法は、地方で物価が下がると均輸官が購入して中央へ送り、都におかれた平準官がこれを貯蔵し、物価が騰貴するとこれを販売して物価を引き下げることをはかった。(紀元前110施行)
これらの政策は、政府が商品の運搬および物価の統制をおこなうことによって、大商人の利潤を抑え、国家収益の増加をはかろうとしたものである。
武帝ののち、宣帝(漢)のとき、国家財政の再建がはかられたが、十分な成果をあげるまでにはいたらなかった。そののち、宮廷内部では外戚や宦官の専横を招き、皇帝の権威は失われていった。
また、地方では土地を兼併して勢力を増した豪族がしだいに成長していき、地方政治を握るまでになっていた。こうしたなかで、ついに外戚の王莽は儒教をたくみに利用して帝位を奪い、前漢を倒して新(中国)を建国した(8年)。
大宛遠征と汗血馬
張騫の報告した西方のめずらしい産物のうちで、武帝(漢)が特に注目したのは大宛(フェルガナ)の汗血馬であった。漢では天馬といわれ、1日に千里走り、血の汗を流したといわれる。李広利の大宛遠征では、3000頭の名馬を連れて帰った。大宛は、東西交通の要衡にあたるため、これ以前にもアケメネス朝ペルシアや、それに続くアレクサンドロス3世の征服を受けている。
武帝(漢)が登場する作品
美人心計
前漢の初代皇帝・高帝(劉邦)の死後、呂雉の専横から第7代皇帝・武帝時代の竇漪房の一生を描いている宮廷ドラマ。
美人心計 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ
■DVD
前漢皇帝系図
前漢の皇帝一覧
前漢の歴代皇帝一覧
代 | 廟号 | 姓諱 | 父 | 母 | 在位 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 高祖(漢) | 劉邦 | 劉太公 | 劉媼 | 紀元前202年 | 紀元前195年 | |
2 | 恵帝(漢) | 劉盈 | 高祖(漢) | 高后(呂雉) | 紀元前195年 | 紀元前188年 | |
3 | 少帝恭 | 劉恭 | 恵帝(漢) | 後宮(不明) | 紀元前188年 | 紀元前184年 | 恵帝崩御後、嗣子がいなかったため、呂太后(呂雉)の支持を得て即位。生母は(呂雉)が殺害。 |
4 | 少帝弘 | 劉弘 | 恵帝(漢) | 後宮 | 紀元前184年 | 紀元前180年 | 少帝恭の弟。恵帝の実子ではないといわれるが真相は不明。 |
5 | 文帝(漢) | 劉恒 | 高祖(漢) | 薄氏 | 紀元前180年 | 紀元前157年 | 紀元前180年に呂雉が崩御すると呂氏一族は周勃、陳平ら建国の元勲、および高祖の孫である斉王劉襄、朱虚侯劉章による政変で誅滅され、劉恒が新皇帝として擁立された。 |
6 | 景帝(漢) | 劉啓 | 文帝(漢) | 孝文皇后 | 紀元前157年 | 紀元前141年 | 中央集権体制に反発した諸侯王らによる呉楚七国の乱。 |
7 | 武帝(漢) | 劉徹 | 景帝(漢) | 王氏 | 紀元前141年 | 紀元前87年 | |
8 | 昭帝(漢) | 劉弗陵 | 武帝(漢) | 趙婕妤 | 紀元前87年 | 紀元前74年 | |
9 | 昌邑王賀 | 劉賀 | 劉髆 | 不明 | 紀元前74年 | 紀元前74年 | 在位わずかに27日であったため、通例としては歴代皇帝の序列から外される。 |
10 | 宣帝(漢) | 劉詢 | 劉進 | 王氏 | 紀元前74年 | 紀元前49年 | 民間に育つが霍光に擁立され即位。後世、後漢光武帝により前漢中興の祖とされ中宗の廟号を贈られる。法家主義。 |
11 | 元帝(漢) | 劉奭 | 宣帝(漢) | 許皇后 | 紀元前49年 | 紀元前33年 | 儒教重視。宦官による専断。 |
12 | 成帝(漢) | 劉驁 | 元帝(漢) | 孝元皇后(王政君) | 紀元前33年 | 紀元前7年 | 宣帝以来の宦官勢力弱体化に成功したが、外戚勢力、生母・孝元皇太后(王政君)の実家・王一族が深く朝政に関与し、後の王莽による簒奪の要因となる。 |
13 | 哀帝(漢) | 劉欣 | 劉康(成帝の異母弟) | 丁姫 | 紀元前7年 | 紀元前1年 | 祖母の傅氏と生母の丁氏が孝成皇后に賄賂を贈り、18歳の時に伯父・成帝の皇太子となり、成帝が崩御すると孝成皇太后の後楯で1即位する。 |
14 | 平帝(漢) | 劉衎 | 劉興 | 衛姫 | 紀元前1年 | 5年 | 従兄の哀帝の崩御にともない、皇帝の璽綬を董賢から奪った王莽らによって9歳で皇帝に即位する。即位当初から王莽ら王一族が権力を握る。 |
15 | 孺子嬰 | 劉嬰 | 劉顕 | 不明 | 5年 | 8年 | 摂皇帝王莽の傀儡として皇太子の位にとどめられ、帝位には即かなかったが、一般に「前漢最後の皇帝」として歴代に名を連ねる。 |