毛利輝元 もうりてるもと( A.D.1553〜A.D.1625)
豊臣政権五大老の一人。毛利元就の長男・毛利隆元の長男。父の死後、祖父元就を後見に中国地方に大版図を築き、1589(天正17)年、広島城築城。関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となるが戦闘には参加せず。戦後減封されるが毛利家の存続を果たす。
毛利輝元
毛利隆元の長男。父の死後、祖父元就を後見に中国地方に大版図を築く。関ヶ原の戦いで西軍の総大将となるが戦闘には参加せず。戦後減封されるが毛利家の存続を果たす。
戦わずして敗れた西軍大将
両川に守られた若き中国の雄
輝元が築城した広島城
関ヶ原の戦いは、そんな時期に起こった。輝元は、時流は徳川にあることを察していた吉川広家からの説得を退け、頼りにしていた僧侶の安国寺恵瓊のいうまま西軍に加担、総大将に担ぎ上げられた。輝元自身は大坂城にて豊臣秀頼を守り、一門の毛利秀元が軍を率いて恵瑣とともに南宮山に陣した。しかし、不本意ながら毛利宗家軍に従って出陣していた吉川広家は、毛利家の領国安堵を条件に東軍に内通、毛利軍を戦わずして大坂に退却させることに成功する。だが、徳川家康は甘くなかつた。戦後、西軍総大将の責は重いとして毛利輝元の領国すべてを没収したのである。広家の必死の嘆願もあって、のち輝元は周防と長門の領有を認められる。ただし、120万余石から30万石への大減封であった。輝元も家康に謝罪して家督を嫡子毛利秀就に譲り、対外的には隠居した。
幕藩体制の確立
織豊政権
豊臣秀吉の全国統一
豊臣政権は秀吉の独裁化が著しく、中央政府の組織の整備が十分に行われなかった。腹心の部下である浅野長政(1547〜1611)・増田長盛(1545〜1615)・石田三成(1560〜1600)・前田玄以(1539〜1602)・長束正家(?〜1600)を五奉行として政務を分掌させ、有力大名である徳川家康・前田利家(1538〜99)・毛利輝元(1553〜1625)・小早川隆景(1533〜97)・宇喜多秀家(1572〜1655)・上杉景勝(1555〜1623)を大老(隆景の死後五大老と呼ばれた)として重要政務を合議させる制度ができたのは、秀吉の晩年のことであった。
江戸幕府の成立
1598(慶長3)年に豊臣秀吉が死去すると、家康の地位は浮上した。家康と対立したのが、豊臣政権を支えてきた実務官僚である五奉行の一人石田三成であった。三成は小西行長らとともに五大老の一人毛利輝元を盟主にして、宇喜多秀家・島津義弘(1535〜1619)らの西国諸大名を味方につけて兵をあげた(西軍)。対する東軍は、家康と彼にしたがう福島正則(1561〜1624)・加藤清正(1562〜1611)·黒田長政(1568〜1623)らの諸大名で、三成と通じた会津の上杉景勝との戦いのあと、東西両軍は1600(慶長5)年9月、美濃の関ヶ原で激突した(関ヶ原の戦い)。
東軍10万4000人、西軍8万5000人の天下分け目の戦いは、小早川秀秋(1582〜1602)の内応により東軍の大勝となった。
家康は石田三成・小西行長らを京都で処刑したほか、宇喜多秀家を八丈島に流し、西軍諸大名90家・440万石を改易(領地没収)した。また、毛利輝元は120万石から37万石に、上杉景勝は120万石から30万石に減封(領地削減)された。逆に東軍の将士はその分加増され、新たに28の諮代大名が取り立てられた。