淀殿
『傳 淀殿畫像』部分(奈良県立美術館蔵)©Public Domain

淀君


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淀君 淀殿よどどの( A.D.1569〜A.D.1615)

父は近江国の戦国大名・浅井長政、母は織田信長の妹・お市の方。浅井氏滅亡後、柴田勝家に再嫁した母にしたがい越前北庄城にはいる。柴田氏滅亡後は豊臣秀吉にひきとられ側室となる。秀頼を生み権勢をふるい、秀吉の死後大坂城にうつる。大坂の陣で敗れ秀頼とともに自刃。名は茶々。淀殿の名前は淀城の女城主だったことによる。

淀君

豊臣家の存続に命をかけた秀吉側室

幼くして経験した二度の落城

淀殿は本名を「茶々」といい、淀殿の名前は淀城の女城主だったことによる。日本史上、時の権力者から城をもらった女性というのは淀殿だけである。淀殿は織田信長の妹・お市の方を母に、北近江の領主浅井長政を父に生まれた。淀殿の幼い頃、浅井家に悲劇が起こる。信長の命を受けた豊臣秀吉の軍に居城の小谷城を攻められ、長政は自害、兄も捕らえられて処刑された。城から逃げ出した淀殿ら三姉妹は、母に従い織田家に移った。信長が本能寺で討たれて(本能寺の変)以降は、織田家の混乱に端を発した為政者たちの権力争いに巻き込まれていくことになる。母お市の方が織田家の重鎮柴田勝家に嫁ぐと、淀殿も妹らと越前北の庄に入った。勝家はお市を三姉妹ともども大切に扱ったという。しかし、安らぎの日々は束の間だった。養父勝家が秀吉との戦いに敗れ、母は勝家とともに自害。このとき淀殿はまだ10代だった。淀殿と姉妹は秀吉の保護を受けることとなつた。2度までも家を潰し、実父母、実兄、養父を奪った張本人の秀吉。だが、淀殿が秀吉にどんな感情を抱いていようと、時代はこの男を天下人に指名したのである。勝家を打倒し、家康をも服従させた秀吉に敵はなく、四国、九州、関東を平らげ、東北の雄たちも軍門に降らせた。関白、太政大臣になり栄華を極めた。天下人の閨房けいぼうもまた華やかだった。その中に淀殿の姿もあった。淀殿は多くの側室の中でも寵愛を一身に受けていたという。やがて淀殿は秀吉の子を産む。それまで実子がなかった秀吉は狂喜した。鶴松と名づけられたこの子は、わずか3歳で亡くなるが、2年後に豊臣秀頼を産んで秀吉を再び狂喜させる。淀殿が単なる側室ではなく、豊臣家で大きな存在となる転機になった。

高台院との関係:秀吉も淀殿も、秀頼が誕生したのちも高台院を正室として立てていた。秀頼の名目上の母親は高台院であり、彼女も秀頼をそれなりにかわいがっていたという。

徳川への臣従を拒否し大坂の陣が起こる

大坂夏の陣図屏風
大坂夏の陣図屏風右隻 部分(黒田屏風/大坂城天守閣蔵/重要文化財)©Public Domain

大坂夏の陣の様子を描いた『大坂夏の陣図屏風』。向かって右の徳川軍。1家康本陣 2秀忠本陣 3伊達政宗隊 4黒田長政隊 5前田利常隊 6藤堂高虎隊 7井伊直孝隊

大坂夏の陣図屏風
大坂夏の陣図屏風右隻 部分(黒田屏風/大坂城天守閣蔵/重要文化財)©Public Domain

大坂城を守るように布陣しているのが大坂方。1秀頼本陣 2毛利勝永隊 3大野治長隊 4真田幸村隊 5明石全登隊。実際には出陣していない秀頼勢が描かれているのが興味深い。合戦の勇壮さを感じさせる図屏風である。

1598年(慶長3)、秀吉が死ぬと、秀吉正室の高台院大坂城から去らしめ、石田三成ら文官派の旧臣を側近に従え、豊臣家の主権者となった。だが、北政所を母のように慕っていた加藤清正福島正則ら秀吉子飼いの武断派武将たちを家康のもとに走らしめてしまい、ひいては豊臣家の滅亡を招いてしまう結果となってしまった。関ヶ原の戦いののち、名目上、徳川家康豊臣秀頼の臣下の礼をとったが、それまで200万石以上を誇っていた豊臣家は63万石の一大名に転落してしまう。淀殿は確かに政治や時代の流れに敏感ではなかった。関ヶ原の戦いで天下の趨勢すうせいが徳川に決し、家康が征夷大将軍になり幕府を開いたあとも、秀頼と自分の天下人としての正当性を主張し、周囲を辟易へきえきさせた。

しかし、家康にも一抹の不安はあった。豊臣家の家名は、いつ不測の事態を起こさないとも限らない。心中には、常に豊臣家対策があった。家康は、秀頼を内大臣に奏請そうせいし、孫娘の千姫せんひめを秀頼に嫁がせた。淀殿は、家康の孫娘の婿となったからには、秀頼が成長したら将軍職に就けてくれるのかもしれないと淡い期待を抱いていた。しかし、家康は早々と将軍職を子の徳川秀忠に譲り、将軍は世襲であることを暗に宣言し、淀殿の望みは断ち切られる。それでも淀殿は秀頼が天下人であることを信じて疑わない。家康が秀頼に臣従を求めてきても、これを拒否。加藤清正浅野幸長の必死の説得によって、二条城での会見をしぶしぶ承知した。その後、家康は秀頼が再建した方広寺の鐘銘に言いがかりをつける(方広寺の鐘銘事件)。そして、淀殿が人質になって江戸に下るか、他国へ国替えするか、秀頼が江戸に下り許しを請うかという難題を押し付けた。大名の娘として生まれた、誇り高い淀殿にとって、自らが人質になるなど受け入れることはできない。秀吉以来の大坂の地を秀頼が離れることも承服しかねる。まして、秀頼が家康に頭を下げて許しを請うなどあってはならない。淀殿がこれを拒否したことで、大坂の陣が起こる。1615年(慶長20.元和1)、大坂城は落城。淀殿は、それぞれ別の道を歩んでいた妹たちの説得を退け、炎上する大坂城で愛息秀頼とともに自害して果てた。

家康と協調すれば、豊臣家は一大名として存続できたかもしれない。しかし、淀殿は豊臣家の誇りを捨てることはできなかった。戦国の世にあって自分の意志をもって生きた彼女の姿は、異彩を放って今日に伝えられている。

秀忠の大坂城:徳川秀忠は、大坂夏の陣で焼失した豊臣秀吉の大坂城の土台を盛土により完全に埋め、その上に新たな大坂城を築いた。現在の大坂城は、江戸幕府が築いたものを後に再建したものである。

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幕藩体制の確立

幕藩体制の成立

江戸幕府の成立

しかし、家康にしたがわない秀吉の子豊臣秀頼は依然として大坂城におり、摂津·河内・和泉3カ国65万石余りの一大名になったとはいえ、名目的には秀吉以来の地位を継承しているかにみえた。1605(慶長10)年、家康は将軍職が徳川家の世襲であることを諸大名に示すため、自ら将軍職を辞し、子の徳川秀忠(1579〜1632)に将軍宣下を受けさせた。駿府に隠退して大御所と称した家康は、実権を握り続け、ついに1614(慶長19)年、方広寺の鐘銘事件をきっかけに、10月大坂冬の陣を引きおこし、12月いったん和議を結んだ。翌1615(元和元)年4月大坂夏の陣を戦い、5月大坂城陥落、淀君(1567〜1615)·秀頼母子の自害によって戦いは終わった。ここに「元和偃武げんなえんぶ」と呼ばれる「平和」の時代が到来した。

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