渭水
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渭水

黄河最大の支流。渭水は甘粛省かんしゅくしょう渭源県いげんけんに源を発して東流し、潼関どうかんの東方で黄河に合流する。現在は渭河ウェイホウとよぶ。流域の渭水盆地は、東の平野部の境に函谷関かんこくかんがあったため、関中とよばれ、中国古代の政治の中心であった。西周(鎬京)、秦(咸陽)、前漢・唐(長安)

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中国の古代文明

周の制度と文化

しゅう(紀元前11世紀〜紀元前256年)は陝西せんせい省の渭水いすい盆地を本拠地とし、紀元前14世紀ころから、に服属する有力なゆうの一つとなっていたが、殷の文化を摂取し、周辺の異民族を服属させるなど、しだいに国力を増していった。

渭水甘粛省かんしゅくしょうに発し、陝西省せんせいしょうで黄河に合流する。流域の渭水盆地は、関中かんちゅうとも呼ばれ、中国古代の政治の中心であり、西周の鎬京こうけい、秦の咸陽かんよう、前漢・唐の長安ちょうあんなどの京都はすべてこの地に営まれた。

周(殷を滅ぼしてから紀元前770年までを西周せいしゅうと呼ぶ)は、都を渭水盆地の鎬京こうけい(現西安付近)におき、殷と同様、諸邑の盟主として華北一帯に君臨した。

秦の統一

しんは中国の北西辺境の地におこり、渭水に沿って次第に東へ移動しながら勢力を拡大していった。戦国時代(中国)はじめの孝公(秦)のとき都を咸陽かんように移し、法家商鞅しょうおうを用いて富国強兵政策を行い中央集権化をはかった。

漢の隆起

秦末におこった反乱勢力のなかで、最後まで残ったのは、はい県の庶民出身の劉邦と、楚の貴族出身の項羽である。秦を滅ぼしたのち両者は激しく争い、ついに劉邦は垓下の戦いで項羽を破って中国を統一して皇帝の位につき(高祖こうそ)、秦の都咸陽かんようの近くに新都長安を建設し、漢王朝をたてた(前漢)。

隋の統一

6世紀末(南北朝時代)に北周では外戚の楊堅ようけんが実権を握り、581年に北周を倒して帝位(文帝)につき、国号を隋(王朝)とした。文帝(隋)は、西魏〜北周以来の根拠地であり、西周(鎬京こうけい)・秦(咸陽かんよう)・前漢(長安)の都が営まれた関中の地に新しい都大興城だいこうじょうを建設した。589年には陳(南朝)を滅ぼし、中国は長い分裂の時代を終えて再び統一された。

唐の建国と発展

李淵(高祖(唐))、李世民はいち早く関中を占拠すると(618〜907)を建国し、長安を都と定めた。

宋代の社会

秦漢以来、中国歴代王朝は、北方民族との対峙という軍事的観点から、要害堅固ようがいけんこの地である咸陽かんようや長安・洛陽を国都としてきた。
また、その都市の内部も、治安維持を優先するあまり、整然とした街路と、街路に区切られた坊と呼ばれる方形の居住区に住民を押し込め、夜間外出を禁止した。さらにこれらの都市は、夜禁の制によって、日没とともにすべての城門を閉じて人々の出入りを禁ずる、閉鎖的な性格をもっていた。
ところが、唐を滅ぼした朱全忠が後梁の国都に定めた開封は、江南からの穀物を輸送する大運河と黄河とが合流する要衝であった。すなわち、当時の流通経済の発展を背景に、軍事的観点よりも財政的条件が国都選定で優先されたことを物語っている。

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