漢委奴国王印 漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん、漢委奴國王印)は、日本で出土した純金製の王印(金印)。読みは印文「漢委奴國王」の解釈に依るため、他の説もある。1931年(昭和6年)12月14日に国宝保存法に基づく(旧)国宝、1954年(昭和29年)3月20日に文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
漢委奴国王印
材質 金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、その他 寸法 一辺の平均2.347cm、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く印台の高さ平均0.887cm、総高2.236cm、重さ108.729g、体積6.0625cm³ 文字 漢委奴國王(かんのわのなのこくおう) 製作 不明 発見 筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)、1784年4月12日発見とする説あり 所蔵 福岡市博物館 57年、倭の奴国王が後漢に使者を派遣。光武帝から、金印・漢委奴国王印を授かる。 史料:『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」小国の分立
江戸時代、博多湾にある志賀の島の叶の崎に甚兵衛という百姓がいた。 甚兵衛の田の水回りをよくしようと水路を掘りなおしたところ、二人でやと抱えられるほどの大きな石に当たった。 金てこでそれを動かすと、下に光るものがある。取り出して水で洗ってみると、金の印判のようなものであった。1784(天明4)年2月23日の出来事である。 驚いた甚兵衛は、兄の喜兵衛が以前奉公していた福岡のさる人に鑑定してもらったところ、貴重な金印であることがわかった。 やがて福岡中の評判になり、郡の役人の耳に入り、金印を役所に届けるよう命令が下った。そこで、庄屋の長谷川武蔵が金印発見のいきさつを甚兵衛から聞き書きして届け、金印は黒田藩の所有物となった。甚兵衛には、褒美として50両が与えられたとも言われている。 金印には、「漢委奴国王印」の5文字が刻まれており、発見当時から『後漢書』に書かれた、光武帝が建武中元2(紀元57)年に倭の奴国の使者に与えた印であるとされた。 「委奴」の読み方は、江戸時代には「イト(伊都)」と読むのが主流であったが、明治時代に三宅米吉が「漢倭奴国王」と読んで、それが定説になった。 金印が偽物であるという説も、江戸からあった。つまみが蛇をかたどった印は、漢の制度にないことなどがその理由であったが、第二次世界大戦後にも、文字の掘り方に基づく偽作説が現れた。これに対して正確に金印を計測し、一片の平均の長さ2.347cmが後漢初期の一寸に当たることを突き止め、中国雲南省の石寨山古墓から「滇王之印」と彫った蛇型のつまみのある金印が出土するに及び、偽作説は退けられた。 出土位置についてもいくつかの説があり、それを知るための発掘調査も行われたが、正確な出土位置はわかっていない。参考