煬帝
A.D.569〜A.D.618
隋の第2代皇帝(在位604年8月21日 - 618年4月11日)。内政では大運河建設に力を入れ、対外面では吐谷渾や林邑を討伐するなど周辺民族に対して積極策をとった。しかし、3回におよぶ高句麗遠征に失敗し、農民・豪族の反乱を招き、揚州(江都)で臣下に殺された。
煬帝
隋の第2代皇帝(在位604年8月21日 - 618年4月11日)。内政では大運河建設に力を入れ、対外面では吐谷渾や林邑を討伐するなど周辺民族に対して積極策をとった。しかし、3回におよぶ高句麗遠征に失敗し、農民・豪族の反乱を招き、揚州(江都)で臣下に殺された。
度重なる遠征の失敗で隋を短命に終わらせる
楊堅の次男。父の文帝(隋)や兄弟たちを殺害して帝位に就く。大規模な土木工事に力を入れ、610年に北は北京近郊の涿郡から南は江南の杭州に至る大運河を完成させたのをはじめ、大興城(長安)を西京として洛陽に東京を造営、さらに大運河沿いに動植物園を付設した顕仁宮のほか40の離宮を置いた。東京の造営には毎月200万人の人民が動員され、完成後はそこに富商数万家が移住させられたという。
すでに文帝時代に1度、高句麗への遠征が行われたが、失敗に終わっていた。それにも関わらず煬帝は、北方の脅威である突厥と高句麗が結ぶことを恐るあまり、再度の遠征を決意。しかし武運つたなく、3度の遠征はことごとく失敗に終わる。煬帝擁立の最高殊勲者である楊素の子で、礼部尚書の重職にあった楊玄感の乱をきっかけに、李密や李淵、王世充など群雄の蜂起が相次ぐなか、煬帝は江都(揚州)で兵変に遭い、殺された。隋は、30年余りで滅亡した。
大運河を完成させた暴君
煬帝は、楊堅の次男。陳討伐に総司令官として活躍し、兄を殺害して帝位に就いた。
煬帝は、首都・長安のほか、洛陽に東都を造営。さらに黄河、淮河、揚子江をすなぐ運河建設に着手。幅約40メートル、全長1800キロメートルにおよぶ大運河が完成。煬帝は運河を南部への遊覧に使用し、金銀をちりばめた豪華船など数千隻を農民に引かせたという。さらに離宮建設などのために、数百万人が動員された。
対外的には、万里の長城を修復して北方民族の侵入に備え、西部や南部に版図を広げた。しかし朝鮮半島の高句麗への遠征は失敗。暴政に苦しむ民衆は各地で蜂起。煬帝は部下に殺害され、隋は38年で滅んだ。
大運河
文帝(隋)の整備した大運河
- 広通渠 黄河〜長安 584年開通
- 邗溝 (山陽瀆) 淮河〜長江 587年開通
煬帝の整備した大運河
- 通済渠 黄河〜淮河 605年開通
- 永済渠 黄河〜涿郡 608年開通
- 江南河 鎮江〜杭州 610年開通
元代が開いた大運河
- 済州河 淮安〜大清河
- 会通河 大清河〜永済渠
煬帝が登場する作品
「隋唐演義」
“中国史上最悪の皇帝”と呼ばれる隋(王朝)二代目皇帝=煬帝(ようだい)。初代皇帝・楊堅の次子。陳討伐のさいに李淵が独断で陳王の愛妃・張麗華を殺したことを恨み、後々まで目の敵にする。兄の皇太子とは犬猿の中で、妹の瓊花公主を殺害してその罪を兄になすりつけ、さらには父王も殺して皇帝の座につく。即位後は権力をほしいままにし、女色におぼれ、外征や大規模な土木工事を繰り返した。人心は離れ、反朝廷の動きが本格化していく。
隋唐演義 集いし46人の英雄と滅びゆく帝国 登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ
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同時代の人物
小野妹子(生没年不詳)
推古天皇期の官吏。607年、遣隋使として大陸に渡る。聖徳太子の命を受け、隋の煬帝に「日出づる処の天子」で始まる国書を渡したことで知られる。