王安石
王安石 ©Public Domain

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王安石 A.D.1021〜A.D.1086

王安石おうあんせきは、北宋の政治家・文学者。神宗(宋)の時代に副宰相ついで宰相となり、新法と呼ばれる富国強兵策を実施。しかし改革は保守派の反対で挫折し、その後、新法党と旧法党の対立(党争)が激化し国力は衰退した。「唐宋八大家」のひとりに数えられる文人でもあり、「紅一点」という言葉は、彼の詩句「万緑叢中一点紅ばんりょくそうちゅうこういってん」から出たものである。

王安石

革新政策を推進した新法党の主導者

北宋の政治家・文学者。神宗(宋)の時代に副宰相ついで宰相となり、新法と呼ばれる諸政策を次々と発布した。富国強兵を究極の目的とし、財政運用の改善、大地主や豪商による収奪の抑制、健全な中産階級の育成、強力な民兵制度の創設などを柱とした。

参考 ビジュアル 世界史1000人(上巻)

新法による財政建て直しは挫折

幼少期から勉学に勤しみ、21歳で科挙に合格。16年間地方官を努め、政治改革を求める「万元書まんげんしょ」を提出。財政改革を目指す神宗(宋)が即位すると抜擢された。
王安石は副宰相から宰相に昇進。改革の最高責任者として新法を次々発布した。「青苗法」「市易法」「募易法」「保甲法」「保馬法」など、いずれも農業、商業、税、軍にまでわたるもの。
富国強兵を目標に、中小の農民・商人に力添えし、格差是正をおこなう法であった。さらに教育の改革なども進め、その結果、国家財政は好転したが、皇族・貴族・大地主や豪商など、既得権者の大反発が始まった。
「旧法党」と「新法党」に分かれての大論争に発展し、王安石は故郷に引退した。その後、旧法党の司馬光が宰相になると、王安石の新法はことごとく廃された。

宋王朝は財政難に苦しんだが、国の経済は大発展していた。首都開封は、運河を通じて全国とつながり、世界中の商人が訪れる貿易都市として栄えた。農家では稲作以外の副業がさかんになった。
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東アジア世界の形成と発展

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東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

東アジア諸地域の自立化

宋の統一

王安石は、江西省撫州臨川県に生まれた。生家は、父は州の副知事まで務めた官戸かんこで、王安石も22歳のとき、435人中4番の成績で進士に合格した。任官後は揚州をはじめ各地の地方官を歴任し、地方の農村の実態に精通した。当時、農業の水利灌漑機構は崩壊し、農民は地主による土地の兼併や、耕地の荒廃、不公平な徭役や、さらには高利貸しによる搾取に苦しめられていた。
こうしたなか、神宗(宋)の即位とともに中央政府に召還された王安石は、翰林学士かんりんがくしから副宰相、やがて宰相に起用され、一連の新法と呼ばれる富国強兵策を実施した。
新法は、官戸・形勢戸らの特権階級の利益を侵害したために反対も大きかったが、彼の約7年間の宰相在職中にはかなりの成果を上げたものの、激しい党争のなかで改革を完全に実現できぬまま失意のうちに50代なかばで引退し、その後は金陵(江蘇省南京)で余生を送った。 唐宋八大家のひとりに数えられる文人でもあり、「紅一点」という言葉は、彼の詩句「万緑叢中一点紅ばんりょくそうちゅうこういってん」から出たものである。

新法の要点

富国策

  • 均輸法:各地の特産物を輸送させ、不足地で売却し、政府の利益をあげようとするもので、政策の狙いは武帝(漢)の均輸法と同じである。物価の安定と商品の流通に役立ったが、大商人は利益を得られず、これに激しく抵抗した。
  • 青苗法:植え付け時に貧農に2割以下の低利で穀物や資金を貸し付け、収穫時に返済させる法。地主・商人が営む高利貸しに苦しむ農民への、低利融資による救済策。
  • 農田水利法:水路・河川の改修や新しい土地の造成をすると同時に、漕運の便をはかった。
  • 募役法:負担の大きい税糧の運送や地方官庁での宴会・接待業務などを農民の当番制でおこなう従来の方式(差役法)を廃し、かわりに農民から免役銭を徴収し、希望者を募って対価の支払い業務にあたらせた。
  • 市易法:都市の中小商人の商品の買い上げと低利融資。物価調節と中小商人の保護を目的とし、豪商を抑制するもの。
  • 方田均税法:全国の耕地を再測量し、各戸が所有する耕地面積とその肥痩ひそうを調査して、その生産力により5等に分け、地税の公平化をはかった。

強兵策

  • 保甲法:農民を農閑期に訓練し、戦時に備えるとともに、平時には治安維持に用い、補助戦力として活用するもの。農民を10戸で保、50戸で大保、500戸で都保に組織した。
  • 保馬法:軍馬の不足を解消するために農民に官馬を飼育させ、平時は農耕用に使用を許し、戦時には徴発する軍馬飼育奨励策。
宋の文化

宋代では散文が盛んになり、形式にとらわれない自由な文章が流行し、多くの名文家が現れた。形式美をきわめた四六駢儷体しろくべんれいたいは、ひきつづき唐代にも流行したが、欧陽脩おうようしゅうは唐代の韓愈かんゆ柳宗元りゅうそうげんを受け継いで簡素で力強い漢以前の古文の復興を唱えた。唐代の韓愈・柳宗元と宋代の欧陽脩・王安石おうあんせき蘇洵そじゅん蘇軾そしょく蘇轍そてつ曾鞏そうきょうをまとめて「唐宋八大家」と呼ぶ。蘇軾は宋代最大の文豪として知られる。

詳説世界史研究

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