王莽 (紀元前
B.C.45〜A.D.23)
新王朝初代皇帝(在位8年〜23年)。元帝(漢)の皇后王政君の王氏一族。成帝(漢)の外戚となり儒教をたくみに利用して帝位を奪い、前漢を倒して新(中国)を建国。1代15年で滅ぶ。「酒は百薬の長」の言葉が有名。
王莽
儒教的な理想国家をめざすも内乱多発
新王朝の創始者となる。王莽は父が早く死んだことから孤独と貧窮のなかで育った。しかし儒学を学び、母や寡婦となった兄嫁によく仕え、亡兄の遺児を養い、すでに列侯となっていた父の兄弟たちにも誠意をもって仕えるなどして、当時の名士から賢者であるとの評判をえた。やがて前漢の外戚として実権をにぎると、列侯・諸侯王よりも上の地位に就いたのち、自ら仮皇帝と称し、さらには禅譲を迫って、新王朝をおこすにいたる。
内政外交の両面で儒教の精神を柱にした大胆な改革を断行したが、理念ばかりが先走ったことから周辺諸国の離反と内乱を誘発することになった。
新王朝を樹立する
前漢の軍人で政敵を殺害。皇帝を名乗り、新王朝を創始。理想主義的な政策は混乱を招き、1代15年で滅ぶ。「酒は百薬の長」の言葉が有名。
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武帝の政治
地方では土地を兼併して勢力を増した豪族がしだいに成長していき、地方政治を握るまでになっていた。こうしたなかで、ついに外戚の王莽は儒教をたくみに利用して帝位を奪い、前漢を倒して新(中国)を建国した(8年)。
新と後漢
新(中国)(8〜23)をたてた王莽は、周の政治を理想として『周礼』などの儒教の経典に基づいて政治をおこない、官制や貨幣制度を改め、全国の土地を国有にし、奴隷の売買を禁じ、また商工業を統制した。その極端な復古主義の政策は社会の実情に合わず、農民や豪族の反抗を招いた。対外的にも、匈奴や西域諸国、高句麗などが離反した。
こうした政治の混乱のなかで農民の反乱(赤眉の乱 18〜27)がおこり、それに乗じた地方豪族の反乱もおこって、都の長安は陥落し、王莽は殺されて新はわずか15年で滅亡した(23)。