白河天皇(上皇・法皇)
A.D.1053〜A.D.1129
在位1072〜86 院政1086〜1129。父後三条天皇の譲位を受けて即位。1086年、母の異なる皇太弟実仁親王の死を待って、子の堀河天皇を7歳で即位させ、院政を開始。1129年まで、堀川・鳥羽・崇徳3代43年間、「治天の君」として統治した。
白河天皇
在位1072〜86 院政1086〜1129。父後三条天皇の譲位を受けて即位。1086年、母の異なる皇太弟実仁親王の死を待って、子の堀河天皇を7歳で即位させ、院政を開始。1129年まで、堀川・鳥羽・崇徳3代43年間、「治天の君」として統治した。
中世社会の成立
院政と平氏の台頭
院政の開始
後三条天皇は子の白河天皇に位を譲って院庁をおいたが、病気のため早く亡くなった。その国政改革の意思を受け継いだのが白河天皇であり、1086(応徳3)年、弟の輔仁親王への皇位継承を嫌ってにわかに幼少の堀河天皇に譲位したのち、上皇(院)として院庁を開き、ついで天皇を後見しながら政治の実権を握る院政を行うようになった。
院とは、もともと住居の意味で上皇の住居を指したが、この時期から一般に上皇自信をさすようになった。
上皇は、中・下級貴族のなかでも、とくに荘園整理の断行を歓迎する国司たちを支持勢力に取り込み、院の御所に北面の武士や武者所を組織したり、源義家や平正盛らの源平の武士団を側近として護衛させるなどして、院の権力を強化した。院長の職員は院司と呼ばれ、院司として上皇に仕えた近臣たちは、朝廷での官職がさほど高くない蔵人や弁官、諸国の国司をつとめるものが多かった。
やがて堀河天皇の死後には、白河院は孫の鳥羽を天皇に据えて、本格的な院政を開始することになった。このように院政は、もともと自分の系統に王位を継承させようとするところから始まったもので、法や慣習にこだわらずに上皇が政治の実権を行使し、白河上皇のあとも、鳥羽・後白河上皇と3上皇の院政が百年あまり続いた。院政のもとでは院庁から下される文書の院庁下文や、上皇の命令を伝える院宣が権威をもつようになり、朝廷の政治に大きな影響を与えるようになった。
三不如意
『源平盛衰記』によれば、白河上皇は、自分の意のままにならぬのは鴨川の水、山法師、双六の賽の目の三つだと語ったという。京都の治水、延暦寺の増兵、賭博だけが自分の意思通りにはならないという、上皇の専制ぶりがうかがえる。法勝寺の法会が4度も雨が降って延期になったことに怒り、雨を容器に入れて獄に投じたという話(『古事談』)もある。上皇の近くに仕えた貴族の藤原宗忠は、「意に任せ、法に拘らず、除目・叙位を行ひ給ふ。古今未だあらず」とも評している(『中右記』)。
同じような上皇は鳥羽・後白河上皇にもみえるところで、これら上皇の勢力の上昇とともに、それまで朝廷を支配してきた藤原氏の勢力は衰えざるを得なくなった。しかし、全く衰えたのではなく、摂関家として家の経済を整え、荘園を集積し、天皇の外戚かどうかにかかわらずに、天皇を補佐するその地位を確立している。
白河上皇は仏教をあつく信仰し、出家して法皇となり、多くの大寺院や堂塔・仏像をつくり、しばしば紀伊の熊野詣でや高野詣を繰り返し、盛大な法会を行なった。なかでも「国王の氏寺」と称された法勝寺は、京の東の白河に建立され、その九重塔は上皇の権威を象徴するものとなった。この法勝寺ののち、堀河天皇の建立した尊勝寺など、院政期に天皇家の手で造営された「勝」の字のつく6寺は六勝寺と称されている。六勝寺は院の仏法による支配を象徴するものであった。
さらに京都の郊外の鳥羽には離宮が造営されたが、この鳥羽殿の離宮や六勝寺の造営の費用を調達するために、広く受領(国司)の奉仕が求められたほか、売位や売官が盛んに行われるようになった。上皇の周りには富裕な受領や后妃・乳母の一族など、院近臣と呼ばれる一団が集まり、上皇の力を借りて収益の豊かな国の国司などの官職に任命された。
院政期の社会
この頃には知行国の制度が広まった。この制度は、上級貴族を知行国主として一国の支配権を与え、その国からの収益を取得させて経済的な奉仕を求めるもので、知行国主はその子弟や近親者を国主に任じ、目代を派遣して国の支配を行った。このころ貴族の俸禄支給が有名無実化し、貴族の経済的収益を確保するために生み出されたものである。また院自身が国の収益を握る院分国の制度も始まった。
院近臣
院近臣の藤原顕季と源氏の武士源義光の所領争論があったとき、顕季は自分の方に理があるのに、白河上皇が何の成敗も下さないことを不満としていた。ある日、機会をみてその点を上皇に尋ねたところ、上皇は顕季に対し、荘園を一つ欠いたところで困ることはあるまい、しかし義光は「只一所懸命之由」だという、道理でのみ裁許したならば、「子細を弁ぜざる武士」が何をするかわからん。と思い猶予していたのだと諭したのである。
上皇の配慮に感激した顕季は、義光を呼び出し、自分は荘園もあり、知行国もあるのに、貴殿は一所を頼みとしていると聞くゆえ、この所領は与えよう、と述べたところ、義光は二字を提出して従者になったという。上皇が近臣や武士に知行国・荘園などを与えて奉仕させていた様子がよくわかるエピソードである。
このため、公領はあたかも院や知行国主・国司の私領のようになり、それが院政を支える基盤となったが、院政のもう一つの基盤が大量の荘園である。特に白河上皇の後半期から鳥羽上皇の時代にかけては、荘園の寄進が院に集中したばかりでなく、有力貴族や大寺院への荘園寄進が増加した。寄進を受けた上皇は、それらの荘園を近親の女性に与えたり、寺院に寄進したりした。
例えば、鳥羽上皇が皇女八条院に譲った荘園群(八条院領)は平安時代末に100カ所、後白河法皇が長講堂に寄進した荘園群(長講堂領)は鎌倉時代初めに約180カ所の多数にのぼった。
これらの荘園群は伝領されて、鎌倉時代末期には八条院領が大覚寺統の、長講堂量が持明院統のそれぞれの経済的基盤となった。
鳥羽方向の時代からは、不輸・不入の権をもつ荘園がさらに一般化し、不入の権の内容も警察権の排除にまで拡大されて、荘園の独立性はいっそう強まった。
女院
八条院は鳥羽法皇と美福門院の両親から多くの荘園をゆずられて大荘園領主になったのであるが、女院は天皇の后や娘に院号が与えられ、院と同様に特別な待遇が与えられたものである。その始まりは一条天皇の生母東三条院であったが、院政時代になると多くの院の后や娘が女院の待遇を与えられ、大荘園領主として華麗な貴族文化の中心的位置を占めるようになった。
なお大寺院では、国家から支給されていた諸国の封戸にみあう収入が国司の滞納によって途絶え、経済的な基盤を荘園に求めるようになっていたことから、争って数多くの荘園を所有したり、地方の寺院を支配下におき、さらに下級の僧侶を僧兵として組織した。僧兵は多くが地方武士の出身であったから、武士と変わらぬ武力を発揮し、法皇の仏教へのあつい信仰を背景に、国司と争ったり、神木や神輿を先頭に立てて朝廷に強訴を行い、要求を通そうとした。
なかでも興福寺の僧兵は、春日神社の神木である榊を捧げて京都に入って強訴したが、この神社は藤原氏の氏神であり、興福寺は氏寺であったから、摂関家もこれにはうかつに手が出せなかった。また延暦寺では日吉神社の神輿をかついで強訴したが、地方に大きな勢力を築いた延暦寺は京都のすぐ近くにあっただけに、多大な影響を与えた。この興福寺・延暦寺を南都・北嶺という。
かつて鎮護国家を唱えていた大寺院のこうした行動は、権力者が各種の私的な勢力に分裂し、法によらずに実力で争うという院政期の社会の特色をよく表している。そうした時に、神仏の威を恐れ、無気力となっていた貴族の力では、大寺院の圧力に抗することはできず、武士を用いて警護や鎮圧にあたらせたため、武士の中央政界への進出を招くことになった。
地方では各地の武士が館を築き、一族や地域の結びつきを強めるようになっていた。諸国の国衙の行政事務をになった在庁官人も多くが武士となり、国司が現地に赴任しなくなったこともあって、諸国の文化の中心は国司の館から武士の館に移っていき、地方の社会の担い手も完全に武士の手に移っていった。
なかでも源義家の去った後の奥羽地方では、陸奥の藤原清衡の支配が強大となった。清衡はやがて平泉を根拠地として、奥州と出羽の2国に勢力を伸ばし、金や馬などの産物の富によって摂関家や院と関係をもち、京都の文化を移入するとともに、北方の地との交易で独自の文化を育てて富強を誇った。その結果、子藤原基衡・孫藤原秀衡と3代100年にわたる奥州藤原氏の基礎を築いたのである。
こうして院政期には、私的な土地所有が展開し、院や大寺社、武士が独自の権力を形成するなど、広く権力が分化していくことになり、社会を実力で動かそうとする風潮が強まった。それらを特徴とする中世社会はこの院政期に始まったのである。