白蓮教徒の乱
白蓮教徒の乱(1796〜1804)は、四川・湖北・陝西省の新開地で発生した ©世界の歴史まっぷ

白蓮教徒の乱


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白蓮教徒の乱 びゃくれんきょうとのらん

A.D.1796〜A.D.1804に発生した、白蓮教徒を中心とする大規模な民衆反乱。八旗・緑営の無力化が露呈し、郷勇が台頭するきっかけとなった。鎮定に莫大な費用を要し、国庫は窮乏した。1351年紅巾の乱の別名でもある。

白蓮教徒の乱

  • 白蓮教徒を中心とする大規模な民衆反乱。八旗・緑営の無力化が露呈し、郷勇が台頭するきっかけとなった。鎮定に莫大な費用を要し、国庫は窮乏した。
  • 四川・湖北・陝西省の新開地で発生した反乱。反乱鎮圧のために清の財政は困窮し、社会不安を招いた。また八旗・緑営にかわって義勇軍である郷勇が活躍し、清朝の弱体化が露呈した。
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アジア諸地域の動揺

東アジアの激動

清の衰退

康熙帝雍正帝乾隆帝と続いた清の全盛も、18世紀の後半になると、チベット・ジュンガル部の征服など、相つぐ外征による出費、官僚の腐敗、社会における貧富の差の拡大(官僚・地主・富商層への土地集中・中小農民の土地喪失と貧窮化)などによってようやく動揺がみえはじめた。官僚・地主層による圧迫は、おりからの人口の爆発的増加による土地・食料の不足とあいまって、民衆の生活を大いに苦しめた。

清の衰退
清代の人口増加の変化 ©世界の歴史まっぷ

清代の人口の変化  清代中期の爆発的人口増加は太平の持続と穀物増産の進展によるほか、地丁銀制施行により人頭課税が廃止されたことも影響している。人口増加は耕地不足を招いて流民や移民の数も増加させ、華北漢人の華南移住(客家)や、東南アジアなどへの国外移住(いわゆる華僑)などが進展していった。

このため、乾隆帝の治世も後半になると、各地で民衆の反乱や抵抗運動が続発するようになったが、これらの反乱・抵抗運動には、抗租・抗糧 と呼ばれる経済闘争のほか、秘密宗教結社に率いられたものが多かった。元末以来、明・清と根強い活動を続けてきたこれらの秘密宗教結社は、一般に白蓮教びゃくれんきょうと総称されるが、1774年に山東省でおきた清水教の乱は、この時期における白蓮教の反乱の皮切りとなり、1796年に始まった白蓮教徒の乱嘉慶かけい白蓮教の乱, 1796〜1804)は、湖北・四川省を中心に10年に及ぶ大乱となった。

白蓮教徒の乱
白蓮教徒の乱(1796〜1804)は、四川・湖北・陝西省の新開地で発生した ©世界の歴史まっぷ

清朝はこの反乱の平定に苦しみ、清朝正規軍(八旗はっき緑営りょくえい)の腐敗と弱体化が露呈され、反乱の平定には、むしろ地方官や地主層によって組織された地方自衛軍(郷勇きょうゆう)の活躍によるところが大きかった。また、戦乱による荒廃と反乱平定に要した巨額の出費は、清の国力を大きく消耗させた。その後も白蓮教結社の地下活動はやまず、1813年には教徒が不意をついて北京の宮城内に乱入するという天理教との乱がおきている。またこの時代には、「反清復明はんシンふくミン」を唱える民間の政治的秘密結社の活動も活発になった。こうした政治的秘密結社を会党かいとうといい、天地会・哥老会かろうかいなどが代表的なものであった。

白蓮教

白蓮教の名は、遠くは東晋慧遠えおんの白蓮社、南宋芽子元ほうしげんの白蓮宗に由来するといわれるが、反体制的な性格をもつ「革命の宗教」として成立したのは元末であったとみられる。その教理の中心となるのは、弥勒下生説(釈迦仏の入滅後、56億7000万年後に弥勒仏がこの世に降臨して、衆生を救済するというもので、仏教には珍しいメシアニズム的な色彩をもつ)であり、弥勒が降臨する直前には「天下大乱」があって、そのなかであらゆる既存の権威や秩序は滅び、弥勒の降臨とともに新しい世が始まることを説く。元末の紅巾の乱は、こうした信仰をもつ白蓮教結社の反乱として展開されたものであった。明朝以降、王朝権力は白蓮教を危険思想とみなして厳重な弾圧を加えたが、白蓮教結社は地下に潜伏して活動を続け、明代だけでも80数件の反乱事件をおこしている。

こうした白蓮教の活動は途絶えることもなく清代に継承され、清末の義和団(ぎわ兼)も白蓮教の流れをくむといわれている。なお、明清朝時代の白蓮教結社は、地域や系統によってそれぞれ固有の名称(上記の清水教・天理教のほか混元教こんげんきょう聞香教もんこうきょう・西天大乗教・八卦教など)をもち、一般にこれらを総称して白蓮教と呼んでいる。

内陸アジア世界の変遷

モンゴル民族の発展

元の東アジア支配

フビライの死後、元朝内部では皇位継承をめぐる相続争いが続いた。元朝になってからも皇位継承の制度が確立されず、クリルタイで後継者を決定する習慣が残っていたため、一族・重臣の間で激しい権力争いが生じた。経済上では、宮廷での濫費や、歴代の皇帝によるチベット仏教の信仰や寺院の建立などによって、莫大な国費を費やしたため財政は窮乏した。元朝は、財政難を切り抜けるための交鈔こうしょうを濫発し、専売制度を強化したが、かえって物価騰貴を招き、民衆の生活を苦しめた。こうした政治の腐敗やインフレに天災や飢饉が加わって、社会不安は増大し、各地で農民の暴動が相次いだ。なかでも弥勒信仰みろくしんこうにより強固に団結した白蓮教徒びゃくれんきょうとは、教主韓山童かんざんどうに指導され、1351年、紅巾の乱(白蓮教徒の乱)をおこした。

白蓮教徒びゃくれんきょうと:白蓮教は、弥勒仏の信仰からでたもので、やがて弥勒が降臨して衆生しゅじょうを救済すると説いた(弥勒下生説)この教えをもとに宗教結社がつくられ、反乱を展開した。

アジア諸地域の繁栄

東アジア・東南アジア世界の動向

14世紀の東アジア

中国でもこのころ政権内部の内紛が続き、さらには自然災害や飢饉が多発して、元朝の支配にかげりが見え始めた。当時元朝では、貴族の贅沢な宮廷生活やチベット仏教への熱狂的信仰のために莫大な経費を必要とし、国家財政が窮乏した。その対策として元朝は交鈔こうしょうを濫発したので、物価の騰貴を招き、民衆の生活が次第に苦しめられていった。これに加え元朝は専売制度の強化を行い、それが黄河の氾濫をはじめとする自然災害や飢饉と相まって民衆の生活を苦しめた結果、生活に困窮した農民は各地で暴動をおこした。この農民反乱はやがて全国に波及していき、中でも宋代から始まる弥勒仏下生みろくぶつげしょうを中心とする仏教系結社である白蓮教びゃくれんきょうを主体とした紅巾の乱(白蓮教徒の乱)がもっとも大規模なものであった。

紅巾の乱の一武将で、安徽省濠州あんきしょうごうしゅうの貧農出身であり、かつて僧侶でもあった朱元璋は、次第に頭角を現していき、儒学の素養を持つ知識人の協力を得ながら江南地方の穀倉地帯を手に入れ、その経済力をもって周辺地域の群雄を勢力下に吸収していった。彼は1368年、金陵(のちの南京)を都として皇帝位につき、元号を洪武こうぶと定めて(1368〜1644)を建国した(洪武帝 太祖)。

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