石田三成 いしだみつなり(A.D.1560〜A.D.1600) 安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。佐和山城主。豊臣政権五奉行のひとり。秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ヶ原の戦いにおいて敗れ、京都六条河原で処刑された。秀吉が小田原北条氏攻めの際の三成の武蔵国忍城攻めは映画「のぼうの城」でも知られる。
目次
石田三成
行政手腕に長けた豊臣恩顧の筆頭
豊臣政権を支えた文治派大名
豊臣秀吉が石田三成を厚遇したのは、その経世の才を見出したためであった。三成は戦場での功名こそ皆無に等しかったが、秀吉というよき理解者を得て、存分に働いた。合戦前の情報収集、各地の討伐における兵站(人員や食糧の補給など)や外交、荒廃した町の復興と占領政策、さらに検地など、戦闘以外の面でその本領を発揮した。秀吉が九州の島津氏を攻めたときには、おもに兵站係を務めた。20万という軍勢の兵器や食糧の輸送と補給をこなし、また島津との講和の斡旋にも携わっている。朝鮮出兵のときも、戦闘には参加せず、軍隊の移動と兵站を総括。大軍を渡海させるという困難な条件下でも軍勢が乱れなかったのは、三成の功績であった。一方、自分に「武」が欠けていることを心得ていた三成は、近江水口に4万石を領したとき、その弱点を補おうとして智勇兼備の武将の島左近を1万4000石という破格の待遇で召し抱え、秀吉を感心させたという話も残っている。五大老と五奉行:当時の史料によれば、毛利輝元らは「御奉行衆」浅野長政らは「年寄」あるいは「おとな」と称されている。現在、一般的に使われている五大老、五奉行の呼称とは逆である。
家康の専横に憤り西軍を糾合
自らは戦場に立つことなく豊臣家を宰領していた三成は、常に戦場で功名を得てきた加藤清正や福島正則ら武断派から憎まれる存在になっていった。それは、単なる三成への嫉視だけではなく、高潔すぎるがゆえに他と交わらない彼の人となりが大いに災いしていると思われる。秀吉の死後、三成と武断派の亀裂はさらに深まる。その上、豊臣政権の内部分裂を利用して、徳川家康が次第に力をつけ、専横の度を増していく。このままでは豊臣家の存続が危ない。太閤様のためにも、家康は除かなければならない。故秀吉ヘの忠誠心が三成を動かした。 家康が上杉攻めのために大坂を空にした間隙を狙って、三成は家康打倒の兵を挙げた。毛利輝元を総帥に迎え、三成方には宇喜多、島津、小早川、小西など8万を超える軍勢が参じた。しかし、三成は戦場での経験がほとんどない。開戦前、夜戦に打ってでるかどうかで軍議がわれた。三成は雨が降っていること、大谷吉継から小早川秀秋に不穏な動きがあると報告を受けたことから、夜戦を拒否。夜戦派だった小西行長は、三成のことを「治部(三成)殿は何から何まで疎漏なく運ぼうとする。けっこうなことだが、戦には魔性がある。書状をいじり政令を案ずるようにはいかないこともある」と評した。 多くの裏切りを許した結果、三成は敗れた。市中引き回しの上、六条河原で処刑。だが捕縛され斬首の間際になっても動ずることなく、罵声を浴びせる東軍諸将を嘲り返したと伝わる。三成と家康:家康が上杉攻めの命を下したとき、三成は末東権太夫という侍臣を家康のもとに遣わし、参加したいと申し入れたが、家康は三成が隠居中であることを理由に拒否したという。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻 -関ケ原の戦いから太平洋戦争の終結まで
幕藩体制の確立
織豊政権
豊臣秀吉の全国統一
豊臣政権は秀吉の独裁化が著しく、中央政府の組織の整備が十分に行われなかった。腹心の部下である浅野長政(1547〜1611)・増田長盛(1545〜1615)・石田三成(1560〜1600)・前田玄以(1539〜1602)・長束正家(?〜1600)を五奉行として政務を分掌させ、有力大名である徳川家康・前田利家(1538〜99)・毛利輝元(1553〜1625)・小早川隆景(1533〜97)・宇喜多秀家(1572〜1655)・上杉景勝(1555〜1623)を大老(隆景の死後五大老と呼ばれた)として重要政務を合議させる制度ができたのは、秀吉の晩年のことであった。幕藩体制の成立
江戸幕府の成立
参考
豊臣政権を支え続けた「過ぎたる城」佐和山の主
三杯の茶
石田三成は、近江国坂田郡石田村の地侍の家に生を受けた。豊臣秀吉(羽柴秀吉)に仕えたのは、1574年(天正2)ごろのことだという(異説あり)が、このとき数えで15歳。近江の観音寺で学問修行をしていたが、そこへ立ち寄った秀吉に対して、温度を変えた3杯の茶を飲ませて感心させたという逸話は有名である。このころの秀吉といえば、浅井長政討滅の功により長浜城主となったばかりであるから、逸話の信憑性はともあれ、秀吉は近江近在の優秀な人材をスカウトしてまわっていたのだろう。秀吉の小姓となった三成だが、華々しい活躍を見せるのは本能寺の変で織田信長が横死してからのち、秀吉が天下盗りレ一スに名乗りを上げてからのことである。

三成が秀吉に見出された寺。最初はぬるめのお茶を多めに、次にやや熱め、3杯目は熱いお茶を少量という心遣いが秀吉の心をとらえたという。
いくさ下手の烙印
1590年(天正18)、秀吉が小田原北条氏攻めの大軍を発すると、三成もそれに従って関東へ出陣した。彼のミッションは武蔵国忍城の攻略である。三成は低湿地に守られた忍城の高い守備力をみると、水攻めを決断。秀吉が備中高松城を水攻めにしたときにその傍らで学んだノウハウを生かし、作業に従事する農民に対しては1日あたり米l升と銭60文、さらに夜勤手当として米l升に銭100文を上積みするという椀飯振る舞いをもって工事を強行。約6kmの堤防がわずか5日で造り上げられたという。総延長は最終的に28kmにまで達したというが、これが埼玉県行田市周辺に今も残る「石田堤」である。

映画「のぼうの城」でも忍城水攻めが描かれている。
過ぎたる城、過ぎたる橋
小田原北条氏の滅亡後、三成は朝鮮出兵でも事務官僚として活躍し、1595年(文禄4)には近江佐和山19万4000石の城主となった。佐和山は標高230m余りと、それほど高いわけではないが、傾斜が大きく、本丸に辿り着くには体力が必要だ。三成はそれまでは砦に毛の生えたような小城だった佐和山城を大改修し、8mにも及ぶ石垣を積んだ上に五重の天守を据え、近世の大城郭へと変身させた。なにせ、天気の悪い日は天守のシャチホコが雲に隠れるほどであったと伝わるのだから尋常ではない。その威容は「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近(島清興。器量抜群と賞賛された三成の家老)に佐和山の城」と唄われたという。
城下は、東の大手側には堀をまたいで町屋が広がり、西の搦手側では松原内湖を渡るための「百間橋」が架けられた。500m以上あったという橋は、前述の唄のバリエーションとして「島の左近に百間の橋」とその名を残している。要塞となった佐和山城を本拠として三成は、秀吉没後も政権の柱石となって豊臣家のために心血を注いだ。そして彼の心血は、やがて関ヶ原で敗れて処刑される最後の一瞬に至るまで、注がれ続けるのである。

古図に描かれた百間橋:三成が島左近に命じて架けさせた木製の橋で、幅3間、総延長300間に及ぶものと伝えらえる。

参考