- 秦 (紀元前778〜紀元前206) 周代の諸侯国で、戦国の七雄の一つ。
- 秦朝 (紀元前221~紀元前206) 秦王政のときに天下を統一。
秦は、北西辺境の地(甘粛省)からおこり、渭水に沿って次第に東へ移動しながら勢力を拡大した。春秋時代中期に穆公が発展に努め、五覇の一つに数えられたこともあるが、中原諸侯からは夷狄視され続けた。戦国時代(中国)の孝公のとき都を咸陽に移し、商鞅を用いて強力となり、張儀を用いた恵文王、白起らを用いた昭襄王にかけて戦国七雄のうちで最強となる。秦王の政のとき、紀元前221年に中国を統一した。秦二世皇帝は在位3年で趙高に殺され、子嬰が立ったが漢の劉邦に降伏し、前206年に滅亡した。
秦(王朝)
秦は、周代の諸侯国で、戦国の七雄の一つ。のち統一国家を建設(秦朝 紀元前221~紀元前206)。甘粛省方面からおこり、帝顓頊(『史記』に記される帝王)の子孫栢翳が舜から嬴姓を賜わったというが、西周末期までは伝説におおわれた部分が多い。周の平王の東遷を助けた襄公がその功績で諸侯に列せられたという。春秋時代中期に穆公が発展に努め、五覇の一つに数えられたこともあるが、中原諸侯からは夷狄視され続けた。強力になるのは戦国時代中期に商鞅を用いた孝公のときからで、次の張儀を用いた恵文王(秦)、白起らを用いた昭襄王(秦)にかけて韓、魏など6国に圧迫を加え、始皇帝のときに天下を統一した(前221)。秦二世皇帝は在位3年で趙高に殺され、子嬰が立ったが漢の劉邦に降伏し、前206年に滅亡した。
秦の統一
アジア・アメリカの古代文明
中国の古代文明
秦の統一
秦は中国の北西辺境の地におこり、渭水に沿って次第に東へ移動しながら勢力を拡大していった。戦国時代(中国)はじめの孝公(秦)のとき都を咸陽に移し、法家の商鞅を用いて富国強兵政策を行い中央集権化をはかった。その後、秦は戦国七雄のうちで最強となり、秦王の政のとき、東周および東方の6国を次々に滅ぼして、紀元前221年に中国を統一した。中国を統一して諸王の王となった秦王の政は、「王」に変えて新たに「皇帝」(「煌々たる上帝」、光り輝く絶対神という意味)の称号を採用した。すなわち秦の始皇帝(位紀元前221〜紀元前210)である。始皇帝は、法家の李斯の意見にもとづき中央集権的な統一政策を実施した。
商鞅は衛の国の公子で、形名(法律)を学んだが衛の国では受け入れられず、秦に入り、紀元前361年以降、孝公(秦)に使えた。商鞅は孝公に富国強兵を説いて受け入れられ、中央集権的支配体制の確立に努めた。改革の中心は以下の点である。
- 県制の実施:新しい占領地(小国)に県制を施行し、長官を派遣しておさめた。これによって農民を直接国家の成員として把握、個々の農民を支配して税役の基盤とした。
- 分異の法:成人男性が2人以上いる家庭を強制的に分家させて小家族を作り、新開地に移住させた。この結果、生産力が大いに向上した。
- 什伍の制:農民を5家・10家単位で隣組を作らせ、治安維持などの面で連帯責任を負わせた。
- 軍功爵 軍功によって爵位を与え、その爵位の等級に応じて土地・財産を与える。出身氏族の区別無しに兵士に採用し、手柄をたてたものには、身分の差なく爵位を与えた。また、爵位の等級によって土地・財産が与えられ、兵士たちの忠誠心や戦意は飛躍的に向上した。
こうした一連の改革は「商鞅の変法」と呼ばれ、厳格な賞罰規定が設けられた。
中央官制では、丞相(行政)・太尉(軍事)・御史大夫(監察)をおいてそれぞれ権力を分立させた。地方では、周の封建制を廃して、統一以前から秦の領土ですでにおこなわれていた郡県制を全国に施行した。
その結果、全国を36の郡に分け(のちに新しい領土が加わったり、大きい郡を分けたりして48郡にしたといわれる)、それぞれの郡には守(行政)・尉(軍事)・監(監察)その下の県には令(行政)・尉(軍事)などの官吏を中央から派遣し統治にあたらせた。郡県制の施行とともに、反乱を防ぐ目的で民間にあった兵器を没収して都の咸陽に集め、全国のおもな都市の城壁を破壊し、12万戸といわれる富豪を咸陽に移した。また、これまで各国で異なっていた度量衡・貨幣(半両銭の鋳造)・文字を統一し(小篆)、さらに車軌(車軸の長さ)の統一もはかったといわれる。
さらに儒家による周の封建制復活の動きに対する李斯の批判にもとづき、医薬・占い・農業技術書以外の書物は全て焼かせ(焚書,紀元前213)、翌年、儒家のうちに皇帝を謗るものがあったことで、咸陽に居住する460数名の儒学者らを捕らえて生き埋めにし(坑儒)、言論・思想の統制をはかった(焚書坑儒)。
そのほか、始皇帝は中国を統一した翌年から地方の巡幸をおこなって皇帝の威厳を各地に示し、皇帝権力の絶対化と中央集権化を推し進めた。
このころ、北方モンゴル高原では、遊牧民の匈奴の勢力が強大になっていたため、秦の北方への進出は阻まれていた。始皇帝は、将軍の蒙恬を派遣し、オルドスの匈奴を攻撃してこれをゴビの北方に退けるとともに、戦国時代(中国)に北辺の燕・趙などが築いていた長城を修復・連結して匈奴の侵入に備えた。長城は、東の遼東(遼寧省遼陽市)から西の臨洮(甘粛省岷県)におよぶ1万余里(4000km余)にわたるもので、これがいわゆる万里の長城である。
また、南方に対しても南越に遠征して華南・ベトナム北部にまで領土を広げ南海(現広州)・象・桂林の3郡をおいた。こうして、北はモンゴル高原の南辺から、南はベトナム北部におよぶ広大な領土をもつ大帝国が建設された。
始皇帝が採用した支配体制は、以後2000年におよぶ中国の中央集権体制の原型となったが、そのあまりに急激な改革や厳格な法治主義による統治は、旧6国の貴族や民衆の反感を招いた。とりわけ、度重なる遠征および長城の修復や壮大な宮殿(阿房宮)・陵墓(始皇帝陵(驪山陵)造営などの大土木工事に関わる負担は、民衆の生活を大変苦しめた。そのため、紀元前210年に東方巡幸途中で始皇帝が病死し、二世皇帝胡亥が即位すると、翌紀元前209年に陳勝・呉広の乱が起こり、これを契機に各地で反乱が勃発した。そのなかには、のちに漢の高祖となる劉邦やもとの楚の貴族出身の項羽も含まれていた。
こうして各地に起こった反乱の渦中で、秦は統一後わずか15年にして滅亡した(紀元前206)。
陳勝はもと日雇いで生計を立てていた貧しい農民で、北辺を守備する兵士として徴発されたが、期間内に目的地である河北の漁陽に到達できないことが明らかになると、斬罪になるのを恐れて呉広らと引率の隊長を斬り反乱をおこした(紀元前209年)。はじめは小規模な反乱集団であったが、秦の拠点を次々に攻略し、河南に張楚という小さな王朝をたてるようになると、秦の圧政に苦しむ農民の支持をえてその規模も拡大した。陳勝・呉広による反乱そのものは、秦軍の圧力や内部の離反により急速に崩壊し、わずか6ヶ月で鎮圧された(紀元前208年)が、これに呼応するようにして各地で反乱がおこった。
なお、陳勝の
「嗟呼燕雀安知鴻鵠之志哉」「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」(ああ、燕や雀のごとき小鳥にどうして鴻(ヒシクイ)や鵠(白鳥)といった大きな鳥の志がわかろうか)の言葉や、反乱に際しての
「王侯将相寧有種也」「王侯将相いずくんぞ種あらんや」(王や諸侯、将軍、宰相になると生まれた時から決まっている訳ではない。即ち、誰でもなることができるのだ)の言葉は有名である。
年表
- 紀元前900年
- 周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げて嬴の姓を賜り、秦の地に領地を貰い大夫となる。
- 紀元前822年
- 荘公が西垂(現眉県)の大夫になる。
春秋時代
春秋時代の地図
春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、中原諸国からは野蛮であると蔑まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。
- 紀元前770年 秦の初代公・襄公
- 周が犬戎に追われて東遷した際に、襄公は周の平王を護衛した功で周の旧地である岐に封じられ、これ以降諸侯の列に加わる。
- 紀元前762年 秦の第2代公・文公
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- 秦が最初に興った場所は犬丘(現在の甘粛省礼県)であるとされ、この地より秦の祖の陵墓と目されるものが見つかっている。
- 汧水・渭水の合流地点(秦)に行き、「昔、周の孝王が我が祖先の秦嬴をこの地に封じられたため、のちに諸侯になることができた」と言って吉凶を卜したところ、吉とあったので、邑をここに営んだ。
- 紀元前714年 秦の第3代公・寧公
- 平陽へ遷都。
- 紀元前677年 秦の第6代公・徳公
- 首都を雍(現在の陝西省鳳翔県)に置く。
- 秦の第9代公・穆公 春秋五覇の一人
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- 隣国晋の献公の娘を娶り、侍臣として来た「百里奚(ひゃくりけい)」などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎の覇者となり、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国晋にも匹敵する国力をつけた。
- 韓原の戦い 晋が驪姫による驪姫の乱で混乱すると、恵公を擁立するが、恵公は背信を繰り返したので、これを韓原の地で撃破した。
- 殽の戦い、彭衙の戦い 普の恵公が死んだ後に恵公の兄重耳を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君・文公となり、その治世時には晋にやや押されぎみになる。
- 紀元前628年の文公死後、再び晋を撃破して領土を奪い取る。
- 紀元前621年、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが殉死し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。
戦国時代
紀元前315年頃の中国
戦国七雄の一つに数えられる。隣国の晋は内部での権力争いの末に韓・魏・趙の三国に分裂した(晋陽の戦い)。
- 秦の第24代公・献公
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- 河西(少梁(しょうりょう))の戦い 秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる。
- 紀元前383年、櫟陽(れきよう)(現在の西安市閻良区)に遷都。
- 大秦帝国 -QIN EMPIRE- あらすじと登場人物
- 秦の25代公・孝公
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- 国中に布告を出して国政の立て直しをはかる。
- 商鞅を起用して行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制に変えた。この「商鞅の変法」運動に始まる秦の法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していった。
- 紀元前350年に涇陽(現在の陝西省咸陽市)付近に城門・宮殿・庭園を造営して遷都し、都の名を咸陽と改めた。
- 秦の第25代公・初代王・恵文王
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- 紀元前324年に王を名乗る。
- 函谷関の戦い 強勢となった秦を恐れた韓・趙・魏・燕・斉の五ヶ国連合軍が攻めて来たが、樗里疾(恵文王の異母弟)がこれを破った。
- 秦滅巴蜀の戦い 紀元前316年 巴蜀(現四川省)を占領し、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、長江の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃が行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。
- 藍田の戦い 謀略に長けた張儀を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し、楚の懐王を捕らえることに成功する。
- この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。
- 恵文王の子の武王との確執により張儀が魏に亡命、さらに韓との戦いで多くの兵を失った上に自身は突如事故死し、後継者争いが起きてしまい戦力が後退してしまう。
- 大秦帝国 第2部
参考 Wikipedia
紀元前250年の中国
秦の王・皇帝系図
参考:大秦帝国 縦横 ~強国への道~ あらすじと登場人物 – 世界の歴史まっぷ
秦伯
- 襄公(秦)(紀元前777年 – 紀元前766年)
- 文公(秦)(紀元前765年 – 紀元前716年)
- 憲公(秦)(紀元前715年 – 紀元前704年)
- 出子(秦)(紀元前703年 – 紀元前698年)
- 武公(秦)(紀元前697年 – 紀元前678年)
- 徳公(秦)(紀元前677年 – 紀元前676年)
- 宣公(秦)(紀元前675年 – 紀元前664年)
- 成公(秦)(紀元前663年 – 紀元前660年)
- 穆公(秦)(紀元前659年 – 紀元前621年)
- 康公(秦)(紀元前620年 – 紀元前609年)
- 共公(秦)(紀元前608年 – 紀元前604年)
- 桓公(秦)(紀元前603年 – 紀元前577年)
- 景公(秦)(紀元前576年 – 紀元前537年)
- 哀公(秦)(紀元前536年 – 紀元前501年)
- 恵公(秦)(紀元前500年 – 紀元前491年)
- 悼公(秦)(紀元前490年 – 紀元前477年)
- 厲共公(秦)(紀元前476年 – 紀元前443年)
- 躁公(秦)(紀元前442年 – 紀元前429年)
- 懐公(秦)(紀元前428年 – 紀元前425年)
- 霊公(秦)(紀元前424年 – 紀元前415年)
- 簡公(秦)(紀元前414年 – 紀元前400年)
- 恵公(秦)(紀元前399年 – 紀元前387年)
- 出公(秦)(紀元前386年 – 紀元前385年)
- 献公(秦)(紀元前384年 – 紀元前362年)
- 孝公(秦)(紀元前361年 – 紀元前338年)
王
- 恵文王(秦)(紀元前337年 – 紀元前311年)
- 武王(秦)(紀元前310年 – 紀元前307年)
- 昭襄王(秦)(紀元前306年 – 紀元前251年)
- 孝文王(秦)(紀元前250年)
- 荘襄王(秦)(紀元前249年 – 紀元前247年)
皇帝
- 始皇帝(紀元前246年 – 紀元前210年)
- 二世皇帝(紀元前209年 – 紀元前207年)
王
- 秦王嬰(紀元前207年)
秦(王朝)が登場する作品
大秦帝国 -QIN EMPIRE-
紀元前4世紀中頃。秦が弱小国から強国へと発展していく歴史を、「商鞅の変法」を中心に描く。楚、斉、燕など諸侯国に攻め立てられ滅亡寸前の秦の君主となった孝公は、魏国出身の稀代の策士・商鞅と共に法による一大改革に乗り出す。
大秦帝国 -QIN EMPIRE- あらすじと登場人物 – 世界の歴史まっぷ
大秦帝国 縦横 ~強国への道~
大秦帝国 -QIN EMPIRE- あらすじと登場人物の続きとなる作品。始皇帝が中国を統一する約100年前、“商鞅の改革”により国力増強に成功した秦を舞台に、縦横家が割拠した第26代君主・恵文王の時代を中心に描く。
大秦帝国 縦横 ~強国への道~ あらすじと登場人物 – 世界の歴史まっぷ
項羽と劉邦 King’s War
項羽と劉邦 King’s War あらすじ 登場人物 – 世界の歴史まっぷ