第2次ウィーン包囲 A.D.1683〜
1683年 オスマン帝国がオーストリアの都ウィーンを包囲した事件。オーストリアとポーランドの連合軍の抵抗で包囲は失敗し、オスマン帝国が中欧から撤退する契機となった。
第2次ウィーン包囲
戦争データ
年月日:1683年7月13日 – 9月12日 | |
場所:オーストリア ウィーン | |
結果:ポーランド・オーストリア連合軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
神聖ローマ帝国 オーストリア大公国(ハプスブルク君主国) ポーランド・リトアニア共和国 |
オスマン帝国 |
参考:Wikipedia
1683年 オスマン帝国がオーストリアの都ウィーンを包囲した事件。オーストリアとポーランドの連合軍の抵抗で包囲は失敗し、オスマン帝国が中欧から撤退する契機となった。
アジア諸地域の動揺
オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ
オスマン帝国支配の動揺
バルカン半島では、ハプスブルク家オーストリアとロシアの南下が始まった。オスマン帝国は、第2次ウィーン包囲(1683)に失敗して手痛い打撃をうけ、1699年のカルロヴィッツ条約 Karlowitz では、オーストリアにハンガリーとトランシルヴァニアを、ヴェネツィアにモレアとダルマツィアを割譲することとなった。さらに1768〜74年のロシア=トルコ戦争に大敗を喫し、クチュク=カイナルジャ条約によって、黒海の北岸をロシアに譲り、黒海の自由通航権を認めた。1792年には再びロシア=トルコ戦争に敗れ、クリミア半島を割譲した。このようにオスマン帝国の弱体化から明らかになると、中東全域へのヨーロッパ諸国の侵略が開始された。