第2次山県内閣
第2次山県内閣カード ©世界の歴史まっぷ

第2次山県内閣


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第2次山県内閣( A.D.1898〜A.D.1900)

憲政党を与党とし、議員の買収工作まで行い、懸案の地租増徴案(2.5%を3.3%に)を実現した。さらに文官任用令・選挙法を改正、軍部大臣現役武官制を定めるなど、山県系官僚(平田ら)・軍部(桂ら)の権力体制を固めた。また治安警察法を制定。義和団事件の際には派兵を決定した。

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憲政党を与党とし、議員の買収工作まで行い、懸案の地租増徴案(2.5%を3.3%に)を実現した。さらに文官任用令・選挙法を改正、軍部大臣現役武官制を定めるなど、山県系官僚(平田ら)・軍部(桂ら)の権力体制を固めた。また治安警察法を制定。義和団事件の際には派兵を決定した。

近代国家の成立

日露戦争と国際関係

日清戦争後の政府と政党
日清戦争後の政府と政党 日清戦争後の政治と政党の流れ図
日清戦争後の政治と政党の流れ図 ©世界の歴史まっぷ

あとを継いだ第2次山県内閣は、いったん憲政党(旧自由党系)と手を結んで、1898(明治31)年、地租増徴案を成立させ、地租率を地価の3.3%に引き上げた。山県内閣は、その後、政党の力をおさえるため、1899(明冶32)年には文官任用令を改正して政党員が官吏になる道を制限し、翌1900年には軍部大臣は現役の大将・中将に限る軍部大臣現役武官制を確立し、また治安警察法をつくつて社会、労働運動を規制するなどの政策をとった。

しかし、超然主義がもはや不可能であることは明らかであった。懸案となっていた衆議院議員選挙法の改正が山県内閣のもとで1900(明治33)年に行われ、選挙権については直接国税の制限額は10円以上に引き下げられて有権者は倍増し、被選挙権における納税額による制限は撤廃されるなど、国民の参政権が拡大されたのである。投票方法も無記名秘密投票制が採用された。このような情勢のなかで、憲政党は文官任用令改正問題で対立を深めていた山県内閣との提携をやめ、伊藤博文に接近し、伊藤も自ら積極的に政党結成に乗り出した。こうして星亨らの指導により憲政党(旧自由党系)は解党し、伊藤を総裁に擁立して、1900(明治33)年9月立憲政友会が結成された。

立憲政友会

初代総裁は伊藤博文、幹部は西園寺公望さいおんじきんもち(1849〜1940)·星亨・松田正久(1845〜1914)・片岡健吉・尾崎行雄·原敬(1856〜1921)・大岡育造(1856〜1928)らであった。かつて自由民権派として活躍した旧自由党系政治家や伊藤系の官僚が中心メンバーとなったが、伊藤は結党にあたって広く実業家・地方議員などにも入党を呼びかけ、また地主層などに多くの支持者を得た。1902(明治35)年の総選挙では190名の代議士を衆議院に送り込んで、過半数を制した(衆議院の定数は376名)。しかし、山県有朋やまがたありともは伊藤の立憲政友会結成に批判的立場をとり、山県系の官僚やその影響下にあった貴族院議員などは立憲政友会に参加せず、貴族院は立憲政友会と伊藤内閣の反対勢力の拠点となった。

官僚制の確立
中央官制の変遷図 官僚制の確立
中央官制の変遷図 ©世界の歴史まっぷ

1880年代以後、内閣制度・各省官制の制定などによって官僚機構の整備が進められると同時に、文官任用令の制定(1893年)など、これまでの情実任用(自由任用)にかわって、近代的な資格任用(試験による官吏の任用)の制度が確立された。また、これと並行して帝国大学をはじめとする官吏養成の教育機関が整備された。藩閥と政党の連立内閣ができるようになると政党員の間に猟官熱が高まったが、これを封じようとした第2次山県内閣は、1899(明治32)年に文官任用令を改正し、資格任用制度をいっそう強化するとともに、文官分限令を公布して官吏の身分保障を強化した

このとき、政党側、とくに憲政党は文官任用令の改正による資格任用制度の強化に強く反対し、政府は一部譲歩して、警視総監・警保局長・官房長・大臣秘書官などについて自由任用を認めることにした。
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