石舞台古墳 蘇我馬子
石舞台古墳 露出する横穴式石室 Source: Wikipedia

蘇我馬子


蘇我稲目

蘇我蝦夷

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蘇我馬子 (?〜推古34(626)年)

蘇我馬子そがのうまこは、飛鳥時代の豪族。蘇我稲目そがのいなめの子。蝦夷えみしの父。敏達天皇びだつてんのうのとき大臣となる。用明天皇ようめいてんのう崇峻天皇すしゅんてんのうに、蘇我氏出身の妃が産んだ皇子を即位させ、権力の集中をはかり、592年馬子の権勢を嫌った崇峻天皇を暗殺し、推古天皇を擁立した。推古天皇・厩戸王・蘇我馬子の三者は、血縁を軸とした結合によって、権力集中を果たそうとした。

蘇我馬子

推古天皇を擁立した大豪族

蘇我稲目の子皇室との姻戚関係を深め、政治的権力を掌握し、敏達天皇びだつてんのう・用明天皇・崇峻天皇・推古天皇の4天皇を擁立した。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで

律令国家の形成

東アジア世界の形成と発展 邪馬台国連合
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

飛鳥朝廷

東アジアの動向と大和政権の発展

継体天皇の死後、ヤマト政権は安閑天皇あんかんてんのう宣化天皇せんかてんのうを中心とする勢力と、欽明天皇きんめいてんのうを中心とする勢力に分裂し、抗争を続けた(二朝並立)。

安閑・宣化王権を支えたのは大伴金村おおとものかなむらであったが、欽明王権は新しく台頭してきた蘇我稲目そがのいなめ(?〜570)によって支えられた。
539年にいたり、両派の妥協の上に欽明天皇の王権に統一されたが、大伴金村は、朝鮮半島政策の失敗を物部尾輿もののべおこし生没年不詳)に非難され、540年に失脚することとなった。このころ、全国各地に屯倉みやけ名代なしろ子代こしろの部が置かれ、また中央では有力豪族の代表(大夫まえつきみ)による合議制が確立し、品部制しなべせい 氏姓制度)が編成されるなど、国家体制整備の大きな画期となった。そして、それらの諸政策を推進したのが、大臣おおおみに任じられた蘇我稲目そがのいなめであった。稲目は、その娘2人を欽明天皇の妃とし、多くの皇子・皇女の外戚になることによって、その権力を確立した。
6世紀の日本国内の動き図
6世紀の日本国内の動き図©世界の歴史まっぷ

6世紀の日本国内の動き – 世界の歴史まっぷDL

蘇我氏の台頭

蘇我氏は、大和南西部に基盤をもち、5世紀に大王家の外戚となっていた葛城かずらき氏から分立した氏族であった。
大和国高市たけち郡蘇我、ついで大和国高市郡飛鳥地方に進出し、稲目の代に蘇我氏として分立し、河内国石川郡をはじめとする全国各地に進出した。
東漢やまとのあや氏などの渡来系氏族を配下におくことによって、斎蔵いみくら内蔵うちくら大蔵おおくら三蔵みつのくらを管理し、王権の財政を管掌したと伝えられる。稲目は、分裂していた王権の収拾にあたり欽明王権を支持することによって、欽明朝に権力を拡大した。

葛城氏の地位を継承し、その娘である堅塩媛かたしひめ小姉君おあねのきみの2人を欽明天皇の妃とし、用明天皇・崇峻天皇・推古天皇をはじめとする多くの皇子・皇女の外戚になることによって、その権力を強固なものにした。
また、大臣という地位に初めて就き、大夫まえつきみ層との合議のもと、内外の政治を統括した。

蘇我氏と物部氏との抗争は激しくなり、538年に百済から公伝した仏教受容の可否をめぐって、崇仏派の蘇我稲目と排仏派の物部尾輿は争った。
この抗争は、それぞれの子の世代にまで持ち越され、587年、大臣を継いでいた蘇我馬子そがのうまこは、王族や諸豪族を集めて、物部守屋もののべもりやを滅ぼした。

奈良県明日香村にある石舞台古墳は、元は上円下方墳であったと推定される。巨石を使用した長さ7.7mの巨大な横穴式石室が残っている。『日本書紀』に見える蘇我馬子の「桃原墓ももはらのはか」に比定されている。隣接する島庄遺跡しまのしょういせきは、蘇我馬子の邸宅と考えられる。
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蘇我氏略系図

天皇・蘇我氏の関係系図
天皇・蘇我氏の関係系図©世界の歴史まっぷ

天皇家・蘇我氏の関係系図 – 世界の歴史まっぷDL

同時代の人物

預言者ムハンマド(570頃〜632)

イスラム教創始者。610年頃、唯一神アッラーから啓示を授けられた預言者であると自覚し、さまざまな偶像を崇拝する多神教に変わって、厳格な一神教であるイスラーム教を唱えた。622年迫害から逃れるために、少数の信者を率いてヤスリブ(後のメディナ)へ移住(聖遷・ヒジュラ)し、ここにムスリムの共同体(ウンマ)を建設した。630年、メッカを無血征服し、カアバ神殿の偶像を破壊してここをイスラームの聖殿に定めた。

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