蛮社の獄 ばんしゃのごく A.D.1839〜
1839年の洋学者弾圧事件。知識人の勉強会である尚歯会に出席した蘭学者グループ蛮学社中(蛮社)の渡辺崋山・長野長英らが、小笠原(無人島)渡航計画などを理由に逮捕された。無実であることは判明したが、モリソン号事件を批判したとして処罰された。背景に洋学の隆盛に対する林家(儒学者)の反発・反感があった。
蛮社の獄
1839年の洋学者弾圧事件。知識人の勉強会である尚歯会に出席した蘭学者グループ蛮学社中(蛮社)の渡辺崋山・長野長英らが、小笠原(無人島)渡航計画などを理由に逮捕された。無実であることは判明したが、モリソン号事件を批判したとして処罰された。
幕藩体制の動揺
幕府の衰退
列強の接近
欧米列強の勢力が日本近海に迫っているときに、この強硬策は、きわめて危険な政策であった。1837(天保8)年、外国船が浦賀に来航し、浦賀奉行所は異国船打払令にしたがって砲撃し、退去させた。翌年、オランダ商館長は、外国船はイギリス(実はアメリカの商船で誤って伝えた)のモリソン号で、漂流民の送還を兼ねて日本との通商を交渉する目的で来航したという情報を伝えた。漂流民を送還してきた外国船を、その来航の目的も問わずに打ち払ったことから、三河国田原藩家老で洋学者の渡辺崋山(1793〜1841)は『慎機論』を陸奥水沢出身の医師で洋学者の高野長英(1804〜50)は『戊戌夢物語』を書いて、日本を取り巻く国際情勢から、幕府の打払い政策を厳しく批判した。幕府は、1808(文化5)年の白河・会津両藩による江戸湾防備の体制をすでに廃止していたが、モリソン号事件を契機に再び江戸湾防備の検討を始めた。幕府は、洋学者で伊豆韮山代官の江川太郎左衛門(坦庵 1801〜55)と洋学に反感をもつ目付の烏居耀蔵(1796〜1873)に別々に調査と立案を命じた。この過程で生じた軋礫もあって鳥居らは尚歯会に集まる洋学者の弾圧に乗り出し、渡辺・高野らが無人島(小笠原諸島)への渡海を計画していたとして逮捕し、モリソン号事件に関する幕政批判の罪で、渡辺華山を国元での永蟄居、高野長英を永牢などに処した。これを蛮社の獄と呼んでいる。
蛮社の獄
事件の背景には、洋学の隆盛に対する林家を中心とする儒学者の反発・反感があった。幕府学問所の儒者や幕府役人のなかにすら、洋学を学びそれに親近感をもつ者が現れるはど、洋学が知識人の心をとらえ始めていた。幕府の文教政策を担い、幕政に重きをなしていた大学頭林述斎らは、この状況に反発した。目付の烏居耀蔵(林述斎の子)は、江川太郎左衛門(坦庵)と江戸湾防備策の立案を別々に命じられたが、この過程で江川と反目し、江川が渡辺華山に師事していたことから、洋学者の弾圧に乗り出した。最初は無人島(小笠原諸島)への渡海を企てたとデッチあげて崋山や高野長英を逮捕し、結局は証拠をあげられなかったが捜資の過程で『慎機論』などを押収し、幕政を批判した罪を問い、処罰した。
列強の接近と幕府の対応
徳川 | 列強の接近 | 元号 | 幕府の対応 | |||
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家治 | 1778〜79 | 露 | ナタリア号が、蝦夷地に来航 (通商を求めたが松前藩は拒否) | 天明 | 1783 | 工藤平助の『赤蝦夷風説考』の意見採用 |
1784 | 田沼意次による蝦夷地開拓を計画 | |||||
1786 | 最上徳内を蝦夷地へ派遣 | |||||
家斉 | 1792 | 使節ラクスマン根室に来航。漂流民(大黒屋光太夫ら)を伴い、エカチェリーナ2世の命で通商を要求 (幕府は通商を拒絶。長崎入港を許可する証明書〈信牌〉を渡し、帰国させる) | 寛政 | 1792 | 林子平が『三国通覧図説』『海国兵談』で海防を説いたことを幕府批判として処罰 | |
1798 | 近藤重蔵・最上徳内ら、択捉島を探査(「大日本恵土呂府」の標柱をたてる) | |||||
1799 | 東蝦夷地を直轄地とする | |||||
1800 | 伊能忠敬、蝦夷地を測量 | |||||
1804 | 使節レザノフ、長崎に来航 (通商を要求するが、幕府は拒絶) | 文化 ・ 文政 | 1806 | 文化の撫恤令(親水給与令) | ||
1807 | 松前藩と蝦夷地をすべて直轄(松前奉公の支配下のもとにおき、東北諸藩を警護にあたらせる)。近藤重蔵、西蝦夷地を探査 | |||||
1808 | 英 | フェートン号事件 (英軍艦フェートン号、長崎に侵入) | 1808 | 間宮林蔵、樺太とその対岸を探査(間宮海峡の発見) | ||
1810 | 白河・会津両藩が江戸湾防備を命じられる | |||||
1811 | 露 | ゴローウニン事件 (露軍艦長ゴローウニン、国後島に上陸して捕らえられ、函館・松前に監禁) | 1813 | 高田屋嘉兵衛の送還でゴローウニンを釈放 | ||
1821 | 蝦夷地を松前藩に還付 | |||||
1824 | 英 | 英船員、大津浜に上陸(常陸) 英船員、宝島に上陸(薩摩) | 1825 | 異国船打払令(無二念打払令) | ||
1828 | シーボルト事件 | |||||
家慶 | 1837 | 米 | モリソン号事件 (米船モリソン号、浦賀と山川で砲撃される) | 天保 | 1839 | 蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英らを処罰) |
1842〜42 | 英 | アヘン戦争 (清が英に敗れ、南京条約を締結) | 1842 | 天保の薪水給与令(異国船打払令を緩和) | ||
1846 | 米 | 米東インド艦隊司令長官ビッドル、浦賀に来航 | 弘化 ・ 嘉永 | 1844 | オランダ国王開国勧告(幕府は拒絶) | |
家定 | 1853 | 米東インド艦隊司令長官ペリー、浦賀に来航。 | 1846 | ビッドルの通商要求拒絶 | ||
1853 | 露 | 使節プチャーチン、長崎に来航 | 1853 | 大船建造の禁を解く | ||
1854 | 日米和親条約・日露和親条約・日英和親条約締結 | |||||
1855 | 日蘭和親条約締結 |