血の日曜日事件 A.D.1905〜
日露戦争中、1905年1月に民主化と戦争中止を掲げて冬宮へ請願デモをおこなった労働者・市民に対する、軍の発砲事件。第1次ロシア革命のきっかけとなった。
血の日曜日事件
- 日露戦争中、1905年1月に民主化と戦争中止を掲げて冬宮へ請願デモをおこなった労働者・市民に対する、軍の発砲事件。第1次ロシア革命のきっかけとなった。
- 1905年1月にペテルブルクでおこった、請願デモの労働者・市民に対する軍の発砲事件。請願デモの背景には、日露戦争でもロシアの戦況不利と、それにともなう社会不安の拡大が存在した。
- 1905年1月22日の日曜日の事件。司祭ガポンに率いられたペテルブルクの労働者ら約14万人の民衆の請願デモに皇帝の軍隊が発砲。1000人以上の死傷者を出した。第1次ロシア革命(1905年)の発端となった。
近代国家の成立
日露戦争と国際関係
日露戦争
立憲政治を実現し国内改革に成功していた日本は、国民の支持のもとに総力をあげて戦うことができたが、専制政治が行われていたロシアは、国内でこれに反対する運動が高まり、十分な戦力を発揮できなかった。そのため戦況は、軍事的には日本の優勢のうちに進展した。陸軍は遼陽·沙河の会戦でロシア軍を撃破し、数力月の激しい攻防戦の末、1905(明治38)年1月にはロシアの東アジアにおける最大の軍事基地である旅順をおとし入れ、さらに3月には奉天の会戦で勝利を収めた。また、海軍も同年5月の日本海海戦で東郷平八郎(1847〜1934)の指揮する連合艦隊が、ヨーロッパから回航してきたロシアのバルチック艦隊をほとんど全滅させた。当時、ロシア国内では、ツアーリ政府の圧政に対する民衆の反対運動が激化しており、1905年1月には、首都ペテルブルクで「血の日曜日事件」がおこり、各地でストライキが頻発するなど、情勢ははなはだ険悪であった。しかし、日本も軍事的勝利は得たが、兵器・弾薬·兵員の補充が困難となり、戦費調達もおぼつかなくなって、戦争継続能力はほとんどなくなりかけていた。そこで、日本海海戦の勝利の直後、日本政府は正式にアメリカ大統領に和平の仲介を依頼した。