護良親王
護良親王出陣図(作者不明)©Public Domain

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護良親王 もりよし(もりなが)しんのう ( A.D.1308〜A.D.1335)

後醍醐天皇の皇子。正中の変の後、延暦寺の座主任じられ僧兵の力をひき寄せようとした。元弘の変で父後醍醐天皇は廃位され、隠岐島に流されたが、護良親王は大和の山間部で兵を挙げ、悪党勢力の集結をはかり討幕に活躍した。後醍醐天皇の建武の新政で、御家人の代表が足利尊氏、畿内の新興武士たちを統率したのが護良親王であった。親王は尊氏の声望を警戒し、武士の掌握に乗り出したが、武士政権を否定する後醍醐天皇の怒りをかい失脚、鎌倉に流されて足利直義に殺された。

護良親王

訴えが父に届かず、悲劇を迎えた倒幕の立役者

倒幕後も尊氏と対立し入洛を拒否した真意

1331年(元弘1)、元弘の変が起こると、もと天台座主てんだいざす護良親王は還俗。後醍醐天皇のもとに参じた。天皇は隠岐へと流されたが、親王は各地を転戦して反幕府勢力の糾合に努めた。

倒幕はなったものの、護良親王の心中は穏やかでなかった。足利尊氏が奉行所を設置するとともに諸国の武士に上洛を命じたのである。護良親王は日に日に従う武士を増やす尊氏を警戒した。

しかし京に入った後醍醐天皇は、尊氏の協力のもと建武政権を発足。護良親王は尊氏との対立姿勢を崩さず入洛を拒否したが、征夷大将軍に任命するという後醍醐天皇の説得を受け入れ、政権に加わることになった。

政権に加わったとはいえ、尊氏は信用しきれないと、親王は読んだ。密かに尊氏討滅を日論んで軍勢催促状を発するが、この書状が、あろうことか尊氏の手に渡ってしまった。尊氏は、護良親王と不和であった後醍醐天皇の寵姫。阿野廉子あのれんしと共謀して後醍醐天皇に書状をつきつける。後醍醐天皇はこれに抗えず、護良親王を捕らえて、尊氏の弟・足利直義が下っていた鎌倉に護送することを決めた。

護良親王は東光寺に幽閉され、1335年(建武2)、高時の子北条時行による中先代の乱が起こると、時行に奉じられるのを恐れた直義の命によって殺害された。なぜ尊氏の危険性が父にはわからないのだという無念の言葉だろう、護良親王は「武家(尊氏)よりも、君(後醍醐)のうらめしく渡らせ給う」と眩いたと伝わる。

太平記:『太平記』は「大塔宮だいとうのみや(護良親王)失わせ給ひし後、たちまち天下みな将軍(足利尊氏)の代と成りてけり」と記している。護良親王は後醍醐が尊氏と対抗するためには必要な人材であった。

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武家社会の成長

室町幕府の成立

鎌倉幕府の滅亡

正中の変で挫折した後醍醐天皇は、護良もりよし(1308~35)・宗良むねよし(1311~85)両親王を延暦寺座主ざすに任じ、僧兵の力をひき寄せようとした。

元弘の変で、後醍醐天皇は捕らえられて沖の島に流され、幕府は持明院統の光厳天皇(在位1331~33)を立てた。天皇の配流をもって事件は鎮圧されたかにみえたが、北条氏に不平をもつ武士、とくに畿内の悪党の動きがここからにわかに活発になる。楠木正成は河内の千早城で再び挙兵し、幕府軍と戦った。当時の戦いの作法にといわれない正成の縦横無尽な戦い方は、史料に記された悪党の戦法そのままである。大和の山間部では護良親王が兵をあげ、悪党勢力の結集をはかった。播磨では親王の指令を受けて、悪党出身の赤松円心あかまつえんしん(1277~1350)が立ちあがった。彼らは幕府の大軍を相手に、いずれも粘り強く戦った。

建武の新政

鎌倉幕府の滅亡は、北条氏一族や御内人勢力の滅亡であり、武士全体の力はいささかも衰えていなかった。討幕は御家人や悪党の参加があって成就したのであり、御家人の代表が足利高氏、畿内の新興武士たちを統率したのが護良親王もりよししんのうであった。足利高氏は御家人に挙兵を促した功績を高く評価され、天皇のいみな尊治たかはるの一字を許されて尊氏と名乗った。護良親王もりよししんのうは尊氏の声望を警戒し、強引に征夷大将軍に就任し、広範な武士の掌握に乗り出した。ところが、将軍位を核とした武士政権を否定する後醍醐天皇は、親王の行動にきわめて批判的であった。天皇の怒りをかった親王はほどなく失脚し、ついで鎌倉に流された。同地に赴任していた足利直義あしかがだだよしは親王を拘禁こうきんし、やがて殺害した。護良親王亡きあと、武士の代表としての尊氏の座は不動のものとなり、新政に失望した武士たちの期待はこぞって彼に寄せられた。

参考

詳説日本史研究

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