豊臣秀吉 とよとみひでよし( A.D.1537〜A.D.1598)
安土桃山時代の武将。尾張の地侍の家に生まれ、木下藤吉郎秀吉と名乗る。今川氏の臣松下之綱、次いで信長に仕えてしだいに才能を発揮し、信長の有力武将に出世。信長が室町幕府を滅ぼした1573(天正元)年に羽柴姓に改めた。本能寺の変後明智光秀を討ち、信長の事績を引き継ぎ、四国・九州・関東・奥羽を征して1590年天下統一を成し遂げた。その間1585年関白となり、翌年豊臣の姓を賜り太政大臣となった。文禄・慶長の役を起こして朝鮮に出兵したが失敗し、戦役中に没した。
豊臣秀吉
天下人にまで昇りつめた下克上の体現者
明智光秀を討ち、信長の後継一番手に
1582年(天正10)6月3日夕刻、備中高松で毛利氏と対峙していた豊臣秀吉のもとに一通の報が届いた。「信長、本能寺で明智に討たれる」。毛利本軍と相対すべく、織田信長の出馬を要請していた、まさにそのときである。秀吉は仰天した。どう動くべきか。秀吉は事の真相を味方の武将にも秘匿し、目前の毛利に和議を提案。和議が結ばれると、秀吉はただちに畿内へと取って返した。6月7日には姫路に帰着。11日には大軍を尼崎に集結させ、京へ進発した。驚異的な速さであった。
6月13日、3万6000余の大軍を山城国山崎に終結させた秀吉は、1万6000余の明智軍をわずか一刻(2時間)あまりで打ち破る。「主君の仇を討った」という錦の御旗を得た秀吉は、信長の後継者の第一候補に躍り出る。秀吉は天下人への第一歩を踏み出した。
信長の信任を得てとんとん拍子で出世
農民の子として生まれた秀吉が確かな史料に登場するのは、1565年(永禄8)。20代半ばの頃のことだ。翌年、信長は美濃攻略に本腰を入れる。そのためには長良川彼岸の墨俣に砦を築かなければならなかった。目の前に敵を見ながら砦を築き、そのうえこれを守らなければならない。佐久間信盛、柴田勝家といった猛将でさえ失敗した困難な事業であった。この難役を成功させたのが秀吉だった。これを機に、秀吉はそれまで以上に信長に重んじられ、秀吉もまた期待に応えた。
浅井氏を減ぼした小谷城攻めでは至難の殿軍(しんがり)を引き受けるなど格別の働きを見せ、信長より北近江3郡を与えられ、長浜城の城主となった。念願の城持ち大名になったうえ、筑前守という官位まで得る。これだけでも十分すぎる成功といえた。秀吉、37歳。
四海の敵を掃討しついに天下を平定
山崎の戦いで信長の仇を討った秀吉は明確に権力奪収に向かって動き出す。まずは信長の後継を決める清洲会議である。丹羽長秀らを抱き込んで会議をリードし、自身の愧儡とすべく、信長の嫡孫・三法師(織田秀信)の擁立に成功する。
跡日問題で対立した柴田勝家との争いも、秀吉が主導権を握った。越前の勝家が冬将軍で動けない間に、秀吉は先手を打って勝家派の諸将を各個に撃破。1583年(人正11)、賤ヶ岳の戦いで勝家も倒し、信長の死からわずか1年足らずで、第一人者の地位を確固たるものとした。
天下統一に向けて歩み始めた秀吉が、もっとも警戒した相手は徳川家康だった。小牧・長久手で激突したが、長期戦を嫌った秀吉は外交での決着を図り家康と和睦。その後、四国を攻めて、土佐の長宗我部元親を降し四国を平定。越中の佐々成政も降伏させる。上洛を拒んでいた家康も、粘り強い交渉の末に臣従させることに成功した。
朝廷より関白に任ぜられた秀吉は、天下統一の総仕上げにかかる。1587年に大軍を擁して島津を攻め、九州を平定。1590年には小田原の北条氏を降した。さらに伊達氏ら奥州諸氏も服属させ、ついに全国を平定。主君信長でさえ達せなかった偉業を成し遂げたのである。60歳に手が届く頃であった。
聚楽第は秀吉がつくった城郭風の大邸宅。後陽成天皇が行幸し、秀吉の権勢を見せつけた。秀吉から関白を譲られた秀次が切腹すると破却された。
天下人・秀吉の政策と晩年の愚行
全国を平定した秀古は、一方でさまざまな諸政策を推進し、封建制度の基盤を確立している。とくに注目すべきは大閤検地だろう。全国規模で統一基準のもとに行われた初めての検地であり、全国の石高が確定、安定した税収の確保が可能となった。また、大規模に行われた刀狩で、兵農分離を徹底、江戸時代の身分統制の原型を確立した。
そのほか関所の撤廃や座の廃止、大坂・京・博多などの都市整備など、秀吉の権力基盤は確固たるものになっていった。これらの政策の大部分は、信長の施策を大規模な形で実施したものであり、秀吉は信長の構想を具現化した正統後継者であった。
軍事・政治の両面で強力なリーダーシップを発揮した秀吉だったが、晩年になると判断に精彩を欠き、独裁者的な志向が強くなる。甥で養子の豊臣秀次を側室も合めた妻子39名とともに処刑するなど、かつての寛容さは消え、残忍な処断が目立つようになった。2度にわたる朝鮮出兵は、7年に及びながらなんら得るものなく、秀古最大の愚行と呼ばれた。
秀吉は2度目の朝鮮出兵の最中、伏見城にて逝去。享年62。死期を悟った秀吉は、五奉行と五大老の制度をつくり後事を託したが、朝鮮出兵で諸大名の多くが過酷な軍役で疲弊、秀古死後の豊臣政権は弱体化した。関東移封を理由に渡海しなかった家康が、やがて豊臣氏にとつて代わることになる。
ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
権威の象徴としての城を築き、諸大名を圧倒
墨俣に砦を築く
日本史上最大の出世を遂げた豊臣秀吉は、城攻め、そして城造りの名人だった。まさに城とともに生きた人生と言えるだろう。彼が最初に歴史にその名を現すのも、城とセットである。1566年(永禄9)のこととされる美濃墨俣築城がそれだ。木曽川の上流から木材を流し、墨俣でそれを素早く組み上げて敵が来る前に完成させてしまったという「ー夜城伝説」は、信頼性の高い史料とはいえない『太閤記』や『武功夜話』に出てくる話である。しかし、織田信長の砦跡に、秀吉が資材を運び入れて補修し、美濃経略の拠点とした可能性は排除できない。何よりも、物資と人員の機能的な集中運用は、のちの秀吉の城攻めのスタイルの原型として注目に値する。
墨俣は美濃斎藤氏の本拠・稲葉山城と西美濃の有力武将たちを遮断する戦略的要地でもある。ここを押さえることで、翌年に安藤守就、稲葉一鉄、氏家直元の「西美濃三人衆」が織田方に寝返り、稲葉山城も陥落した。
北近江の秀吉
こうして美濃征服に大きく貢献した秀吉は、北近江の浅井長政が信長に敵対すると、これに対抗する横山城の守将に任じられ、3年後の1573年(天正1)に浅井氏が滅亡するとその本拠・小谷城を与えられた。
初めて城持ちとなった秀吉だが、彼が慧眼ぶりを見せるのはまさにこのときだ。険しい山城である小谷城では今後の発展が見込めないと考えた彼は、1年後には琵琶湖畔の今浜に城を築き、そこに本拠を移したのだ。琵琶湖水運に直接アクセスできるこの土地で、秀吉は大々的に商人らを呼び寄せ、城下町を建設した。のちに「長浜」と呼ばれる町の誕生である。
豊臣秀吉城関連年表
1537 | 尾張中村に、木下弥右衛門の子として生まれる |
1554 | 織田信長に仕える |
1566 | 織田信長の美濃平定で墨俣砦を築く |
1567 | 織田信長、美濃稲葉山城を落とす |
1568 | 織田信長の近江箕作城攻めに従う |
1570 | 近江横山城の城番となる |
1573 | この頃羽柴と改姓。近江小谷城の落城により、小谷城主となる |
1574 | 今浜(のち長浜) に築城し、本拠を小谷城から移す |
1575 | 織田信長、徳川家康とともに三河長篠で武田勝頼を破る |
1580 | 播磨三木城を陥れ、中国地方攻めの拠点として播磨姫路城に入る |
1581 | 因幡鳥取城を攻める |
1582 | 備中高松城を攻める 本能寺の変で織田信長が明智光秀に襲撃され自刃 山崎の戦いで明智光秀を敗死させる 山城の山崎宝寺に山崎城を築城し、居城とする |
1583 | 賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、越前北庄城を落とす 摂津大坂城の築城を開始 |
1584 | 小牧・長久手の載いで徳川家康・織田信雄の連合軍に敗れる |
1585 | 紀伊太田城を攻める 土佐岡豊城の長宗我部元親を降伏させ、四国を平定 関白に任官する 越中富山城の佐々成政を降伏させ、北陸を平定 |
1586 | 関白の政庁とするため聚楽第の築城を開始 太政大臣に任官し、豊臣姓を賜る |
1587 | 薩摩内城の島津義久を降伏させ、九州を平定 聚楽第が完成 |
1588 | 後陽成天皇、聚楽第に行幸 |
1589 | 側室の淀殿、山城淀城において鶴松を産む |
1590 | 相模小田原城の北条氏政・氏直父子を攻め、石垣山城を築く。 北条氏を滅亡させ、関東を平定 朝鮮からの使節を聚楽第で迎える |
1591 | 陸奥九戸城の九戸政実を滅ぼし、東北を平定 肥前名護屋城築城 関白職を甥の秀次に譲る |
1592 | 後陽成天皇、再び聚楽第に行幸 明に侵攻するため朝鮮に出兵(文禄の役) 秀吉も自ら名護屋城に赴き、滞陣する |
1593 | 側室の淀殿、秀頼を産む |
1594 | 指月伏見城完成 |
1595 | 関白秀次に自刃を命じ、禁楽第を壊す |
1596 | 指月伏見城が地震で損壊、木幡山に再建開始 明からの使節を大坂城で迎える |
1597 | 明との講和交渉が決裂し、再び朝鮮への出兵を命ず(慶長の役) |
1598 | 木幡伏見城で没する |
中国地方での城攻め
1576年、秀吉は信長から中国地方の平定を命じられる。以降、数年間にわたる毛利氏との戦いにおいて、彼は「三木の干殺し」「鳥取の飢え殺し」「高松城水攻め」と呼ばれる播磨三木城・因幡鳥取城・備中高松城攻めを実行した。ここで秀吉の真骨頂が発揮される。三木城攻めでは1年半もの兵糧攻めを行い、鳥取城攻めでは2里(約8km)に渡る二重の堀と土塁を築いて城を完全封鎖した。備中高松城攻めではさらにそれを上回る3里(約12km)の巨大堤防を築き、城を水没させてみせたのだ。しかも、その大工事をひと月に満たないわずかな日数でやり遂げている。資金力にものを言わせて大量の物資と人員を集中する秀吉得意の戦法の完成であった。
天下人の城
1582年(天正10)の本能寺の変後、天下獲りレ一スのトップに躍り出た秀吉は、翌年から大坂城の築城を開始する。この豪壮かつ華麗な日本一の巨城の城下には、堺や平野など商業都市の商工業者を移住させたが、それだけでなく本願寺などの宗教権威も集められ、天皇を京から移そうとさえした。秀吉は大坂を聖俗・政経すべての面での日本の首都とし、大坂城をそのシンボルにと構想したのだ。
結局大坂遷都が実現することはなかったが、秀吉はその代わりとして京都に聚楽第を築く。城内には諸大名の屋敷が建ち並び、文字通り天下人の政庁にふさわしい大城郭であった。1588年(天正16)、この城への後陽成天皇行幸は、秀吉一代の盛事となる。彼は当初の「天下人の城」に聖俗を集めるという構想を、違う形で実現してみせたといえるだろう。
秀吉は得意の物量戦と機動力で城を築き、そして攻め落としてみせ、天下人となった後、彼の城は示威のシンボルとなり、諸大名を圧倒したのである。
幕藩体制の確立
織豊政権
豊臣秀吉の全国統一
信長の後を継いで、全国統一を完成したのは豊臣秀吉(1537?〜98)である。尾張の地侍の家に生まれた秀吉は、信長に仕えてしだいに才能を発揮し、信長の有力武将に出世した。秀吉は初め木下藤吉郎秀吉と名乗ったが、信長が室町幕府を滅ぼした1573(天正元)年に羽柴姓に改めた。
1582(天正10)年、秀吉は本能寺の変を知ると対戦中の毛利氏と和睦し、山城の山崎の合戦で明智光秀を討ち、信長の法要を営むなどして信長の後継者争いに名乗りをあげた。翌年には柴田勝家(?〜1583)を近江の賤ケ岳の戦いに破り、ついで勝家にくみした織田信孝(信長の3男1558〜83)をも自刃させて信長の後継者の地位を確立した。また同年、秀吉は水陸交通の要地で寺内町として繁栄していた石山の本願寺の跡に、壮大な大坂城を築き始めた。ついで1584(天正12)年、秀吉は尾張の小牧・長久手の戦いで織田信雄(信長の次男、1558〜1630)・徳川家康(42〜1616)の軍と戦ったが、戦局が膠着したために和睦した。以後、秀吉は東国を軍事的に征服する方針を転換し、朝廷のもつ伝統的な支配権を和極的に利用するようになった。
1585(天正13)年、秀吉はまず小牧・長久手の戦いの際に徳川方に味方した紀州の根来衆と雑賀一揆を滅ぼし、ついで朝廷から関白に任じられ、長宗我部元親(1538〜99)を下して四国を平定すると、翌年には豊臣の姓を与えられた(豊臣賜姓)。関白になった秀吉は、天皇から日本全国の支配権をゆだねられたと称し、惣無事(全国の平和)を呼びかけ、互いに争っていた戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を秀吉の決定にまかせることを強制した(惣無事令)。惣無事令は戦国大名の喧嘩両成敗法を全国に及ぼしたものといえるが、これによって大名から百姓にいたるまですべての階層で合戦・私闘が禁じられ、戦国の世も終息に向かったので、この命令のことを豊臣平和令ともいう。
惣無事令はその後、秀吉が全国を平定する際の法的な根拠になった。1587(天正15)年にはこの命令にしたがわず九州の大半を勢力下においた島津義久(1533〜1611)を征討し、降伏させた(九州平定)。さらに1590(天正18)年には秀吉の停戦命令を無視して他領に侵攻した小田原の北条氏政(1538〜90)を滅ぼし(小田原攻め)、ついで奥羽仕置のため会津に入った。これによって同じく秀吉の停戦命令を長らく無視し続けていた伊達政宗(1567〜1636)をはじめ、東北地方の諸大名もようやく服属し(奥羽平定)、ここに秀吉の全国統一が完成した。1590年から翌年にかけて秀吉の奥羽仕置に反対して葛西・大崎一揆や九戸政実(?〜1591)の乱が相ついで起きたが、いずれも鎮定された。また小田原北条氏の滅亡に伴い、徳川家康を長年の勢力基盤であった東海地方から北条氏の旧領である関東に転封し、また葛西・大崎一揆鎮定後、伊達政宗を米沢から葛西・大崎氏旧領に転封するなど、領地替えを通じて大名の勢力削減をはかるとともに、武士を在地から切り離して兵農分離を推し進めた。
秀吉は、信長の後継者としての道を歩みながらも、軍事的征服のみに頼らず、強力な軍事カ・経済力を背景に、伝統的支配権を利用して新しい統一国家をつくりあげた。1588(天正16)年、秀吉は京都に新築した聚楽第に後陽成天皇(在位1586〜1611)を迎えて歓待し、その機会に諸大名に天皇と秀吉への忠誠を誓わせた。ついで全国統一を終えた1591(天正19)年、秀吉は関白の地位を甥の豊臣秀次(1568~95)にゆずるとともに緊楽第を与えたが、その後秀吉に実子豊臣秀頼(1593〜1615)が誕生したことから秀次との関係が悪化し、1595(文禄4)年、謀反を企てたという理由で秀次を処刑した。聚楽第もこのときに破却され、以後、豊臣政権の政庁は秀吉が隠居城として新築した伏見城に移った。
検地と刀狩
豊臣政権が新しい体制をつくり出すために打ち出した中心政策が、検地と刀狩であった。豊臣秀吉は信長在世中の1580(天正8)年の播磨検地以来、新しく獲得した領地につぎつぎと検地を施行してきたが、秀吉が実施したこれら一連の検地を太閤検地(太閤とは、前に関白であった人の尊称)という。太閤検地の検地帳は石高で記載され、この結果、全国の生産力が米の量で換算された石高制が確立した。またこれによってそれまでの貫高制などが新しい基準の石高制に改められたので、この検地のことを天正の石直と呼ぶこともある。